天水夜 中編






 蕾はベランダから部屋に戻ると、そのまま部屋のドアを開けてスタスタと階段を下りて行ってしまった。

 他の部屋に何の用事だろう、と東雲が訝しく思っていると、しばらくして両手に缶ビールを山ほど抱えた蕾が戻ってきた。
 母屋のキッチンまで行ってビールを調達してきたらしい。まさに勝手知ったる他人の家、である。

「……君、こんなに持ってきたの」
 軽く半ダース以上はある。この家でビールを飲むのは田科教授だけなので、大量に減ったのを気付かれたら、あらぬ疑いを招きかねない。
 だが、若干の抗議を込めた東雲の言葉は、あっさりと蕾にかわされた。
「いちいち取りに行くのは面倒だからな」
「いや、そういうことじゃなくて…」と言いかけた東雲はハタとあることを思い出す。
 今はちょうどお中元シーズンで、田科家や研究所にもビールとおぼしき荷物が何箱も届けられていたのだ。そういえばここ数日は、冷蔵庫にもけっこうな量のビールが冷やしてあった気がする。この時期ならば多少減ったところで気付かれることはないかもしれない。

「それに冷蔵庫から取った分はちゃんと補充しておいたから大丈夫だ」
 さっそくプルタブを空けながら蕾はそんなことを言っている。
 蕾らしからぬその言葉に東雲は思わず笑ってしまった。飲んだら代わりのビールを冷やしておけと透に躾られているのだろうか。
「まあ、君にしては上出来だね」
 なにはともあれ、これだけのビールを持ってきたということは、しばらく東雲の部屋に腰を落ち着ける気になったということだ。そんな蕾をこれ以上不機嫌にさせることもあるまいと、蕾の好きにさせることにした。
 英子達が帰ってくるのは明日の夕方だから、それまでに空き缶を始末をしておけば問題ないだろう。

 ベッドを背もたれにして床にあぐらをかいた蕾は、すっかり機嫌が直ったのか「うまい」などと言っては満足そうに缶を傾けている。
 一方の東雲は、一緒にビールを飲むことはなく、いつものように椅子に腰掛け、机に肘をついた姿勢で蕾と話していた。足を組んで多少姿勢を崩しているとはいえ、そんな体勢ではゆっくりできなかろうにと常々蕾は思っているのだが、東雲にとっては天界でも下界でも定位置である机の前に座っているのが一番落ち着くらしい。

 やがて、ほどよく酔っぱらったのか、蕾は思い出したように東雲に尋ねてきた。
「そういえば、結局、おまえの好きな相手は誰なんだ」
 不意の話題に東雲は一瞬固まってしまったが、すぐに悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「ふふ、気になるのかい?」
 蕾はそんな東雲の態度に、フンと鼻を鳴らす。
「別に。 ただ、東皇使のくせに想う女をさっさと后にしないというのは合点がいかぬと思っただけだ」

 東雲に好きな女の一人や二人くらいいたっておかしくないとは思うのだが、だったら少しはその気配というか片鱗がありそうなものである。あまり交流のなかった頃ならいざ知らず、こんなに頻繁に顔を合わせているにも関わらず、蕾が全く気付かないことなどあるだろうか。
 東雲の想い人は母上だと言ってみたのも、まるっきり本気だったわけではないが、ひょっとしたらという思いもなくはなかった。そのくらい、東雲には特定の女の影がない。女どもに囲まれていても、いつも人当たりの良い笑顔であたりさわりなく対応しているだけで、本気の笑顔ではないのは蕾には一目瞭然だ。
 だからそんな相手がいるのならばすぐに分かると思っていたのに、実はまったく蕾のあずかり知らぬ所で東雲が密かに誰かを想っていたというのが納得いかないというか、要するにイマイチ面白くないのだ。

「それとも、あれは曄を諦めさせるためのただの方便で、本当は想い人などいないのか?」
 またしても蕾の意外な鋭さに、東雲は苦笑する。
 確かに東雲自身、はじめは曄の求愛を断るための口実のつもりで「想う方がいる」と言っただけだった。だが、言霊とでも言うのか、口に出したことで、それまであまり意識していなかった「想い人」が逆に東雲の中でハッキリと形を為してしまったような所もある。
 つまり簡単に言うと、嘘から出た誠だ。

「いやまあ…一応、ちゃんといることはいるよ」
「なんだ、歯切れの悪い。 では、やはり人妻とかすでに相手がいるとかか?」
「なんだって、そんなに人妻にこだわるんだね。 そんな誓いあった相手がいるような方に横恋慕しているわけではないよ」
 一体何を期待しているんだか、と東雲は苦笑する。
「なら何も問題ないではないか……ひょっとしておまえアレか、人間の女に恋をしたのか?」
 揶揄うように聞いてくる蕾の顔は興味津々だ。
 普段、蕾とはまったくと言っていいほどこういった類の話はしないので、東雲の恋愛話なぞには全く興味がないのかと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「いやいや、れっきとした天仙だよ。 まあでも、后にできないという点ではある意味近いかもしれないがね」
 それを聞いた蕾は怪訝な顔をする。
 天仙なのに后にできないとはどういう意味だ。
「なぜだ? 后にしたいほどには好きではないということか?」
「そういうわけではなくて、なんて言ったらいいのか……」
 まさか性別に問題があるとは言えない。
「うーん、今はまだただ普通に一緒にいられればいいというか、現状でわりと満足しているというか、その、敢えて后になってもらう必要はないかなー……なんて?」
 なぜ本人を目の前にして、しどろもどろに弁解をしなければならないのか。いっそ、蕾に告白してしまった方が早い気もするが、東雲にはまだその覚悟も心の準備もできていない。
 そんな東雲の逡巡などまったく気付かずに、蕾は気楽に追求してくる。
「ますますわからんな。 一緒にいたいのならそれこそ結婚すればいいではないか」
「そりゃ、本当はそうできれば一番いいんだけど。 いやその……ほら、あれだよ、相手の気持ちとか、いろいろあるだろう」
 苦し紛れに言った東雲のセリフに、蕾は少なからず驚いた。

 昔から乱暴者の蕾を見かけては眉をひそめる華恭苑の仙女たちが、東雲が来ただけで声のトーンが跳ね上がり、愛想も待遇も五割増が当たり前だ。もちろん女に絶対的に甘い東雲自身の性質や、永帝の皇子という身分のせいもあるだろうが、しかし、やはり東皇使というお役目は大きいと思う。
 東皇使の后になるということは、仙女――とりわけ花仙にとっては最上級の慶祝とされている。愛でられてこそ輝きを増す花の女たちにとっては、華やぎと慶びに満ちた春そのもののような愛情を惜しみなく与えられるそのポジションは、生涯の幸せを保証されたも同然なのだ。
 たぶん、東雲が初対面の仙女にいきなり求婚したって、断られることはなどほとんどないのではないかと思う。

「東皇使が落とせない天仙などいるのか」
 まさに今、東雲の目の前にいるのだが。
「落とせないって、そんな俗な……まあ、その方にとっては、私が東皇使だというのはあまり関係ないみたいだから」
「ほう、それは是非とも会ってみたいものだな。 さぞかしおまえの悪口で盛り上がれそうだ」
 そんなことを言って楽しそうにほくそ笑む蕾に、いっそ鏡でも渡してやろうかと埒もないことを考えてしまう。
「君ねえ……面白がってるだろう」

 その通り。
 どうやらいつになく困っているらしい東雲に、蕾は密かな満足感を覚えていた。この手の話題では、いつも東雲の専売特許とばかりに主導権を握られて揶揄われるのが常なのだが、今日は立場が逆だ。
 普段は絶対にこんな話をすることはないし、東雲も蕾も、基本的には他人の恋愛に関して深く関わることはない。少し背中を押してやったり、きっかけを与えることはあるけれど、あくまで恋愛というのは当事者同士の問題だという認識は一致している。
 それは互いについても同じで、蕾はこれまで東雲の恋愛話など聞いたこともなかったし、東雲に聞かれたこともない(もっとも、聞かれたところで答えるほどの話もないのだが)。
 ちょっとした酒の肴にでもなればと酔った勢いで話を振ってみたら、意外にも、東雲がはぐらかすことなく素直に答えてくれたので驚いた。しかも、したり顔で成功談を話すわけではなく、どうやらあまり思わしくなさそうなのがまた珍しい。東雲自身の恋愛相談(?)など、こんなチャンスでもなければ聞くことができないだろう。
 とはいえ、ただの好奇心であまりに核心に触れるのも野暮というものだ。東雲が話したいのならいくらでも聞いてやるのだが、そうでないならそろそろやめておいた方がいいかもしれない。

「まあ、おまえもたまにはそういう苦労をしといた方が謙虚になれていいかもな」
 意地悪く笑いながら話をまとめた蕾に、東雲が渋面を作る。
「私はいつもこの上なく謙虚だと思うがね……まあ、いろいろと障りがあって恋が成就するのは難しそうだから、まだ当分は后を娶ることはないと思うよ」
「東雲……」
 何気ない口調の中に、微かに混じる諦めと自嘲。
 さらにチラリと垣間見えた東雲の素の表情から、東雲が本気で叶わぬ恋をしているのだと――少なくとも東雲本人はそう思っていることを――感じ取った蕾は、なんと言っていいのか分からなくなってしまう。結局、口を開く代わりに、持っていたビールを一気に呷った。
 そんな蕾に、東雲はクスッと小さく笑うと、いつもの揶揄うような口調に戻る。
「安心した?」
「あ? どういうことだ」
「いや、君が珍しく随分と絡んできたから、ひょっとして私が結婚してしまうのが寂しいのかなと思ってね」
 ガツッ
「…ッ」
 考えるよりも先に、蕾は条件反射で東雲の脛を思い切り蹴っ飛ばした。
「フン、バカらしい。 そんなワケがあるか」
 足を押さえて痛がる東雲が何か言い返してくるかと思ったが珍しく黙ったままだったので、そのまま何となく会話が途切れた。

 そして、しばらくは二人とも物思いに耽るように外の雨音を聞いていたのだが、不意に蕾が口を開いた。
――おまえは飲まんのか」
 先刻の流れで東雲がまだ悩んでいるとでも思ったのだろうか、不器用ながらも東雲を慮ってくれているのがぶっきらぼうな口調から伝わってくる。
 蕾らしい気の遣い方に、東雲は微笑んでその提案を受けることにした。
「そうだね、たまには私も飲もうかな」
 東雲は下界では高校生、しかも優等生で通しているので基本的に飲酒はしないが、天界に戻れば宴などで飲む機会もけっこう多い。実は東雲も、蕾ほどではないが酒にはかなり強い方だ。
 だが、一本もらおうと伸ばしかけた東雲の手は、続く蕾の言葉でそのまま宙に浮いてしまった。
「お? もうないな……東雲、おまえ飲みたければ自分で取ってこい、オレの分も忘れるなよ」
 珍しく誘っておいてこれだ。
 あれだけ大量にあったのに、いま蕾が飲んでいるのが最後の一本らしい。体よく東雲をパシリに使おうという魂胆だろうが、東雲とて素直に蕾の言うことを聞くような性格ではない。
「じゃあ、私はそれでいいや」
 立ち上がった東雲が、蕾の手からサッと缶を奪い取る。
 そして、「あ、オイッ!」という蕾の抗議を聞き流して、あっという間に飲み干してしまった。
「なんだ、ほとんど残ってないじゃないか」
「最後に一口だけ残しておいたんだッ。 キサマはさっさと新しいビールを持ってこんか!」
 酔っぱらいを怒らせると手に負えない。蕾がいきなり手近にあった空き缶を、東雲めがけて投げつけてきたから堪ったものではない。
 いくつもの空き缶を頭に喰らった東雲は白旗を揚げ、仕方なくビールを調達しに部屋を出た。




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ちょっと長くなったので一旦切りました。



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