そう早くはない時間に目覚めた蕾が起き上がっても、東雲は全く気付かなかった。
眠りに付いたのがほんの数時間前、すでに朝に近い時刻だったし、ここ数日あまり寝ていないと言っていたから、よほど疲れていたのだろう。
しかし、その表情はとても安らかで満ち足りたものだった。よく彼が浮かべている穏やかな微笑みとは違う、あどけない無防備な寝顔。
顔にかかった髪をかきあげてやると、さらに印象が幼くなる。出会ったばかりの頃、蕾の後をついてまわっていた東雲を思い出して、蕾は表情を緩めた。
(いつもこうだったら、もう少し可愛げがあるものを)
しばらくそうしていたが、東雲がまったく目を覚ます様子がないので、とりあえず一服してこようと、手近にあった東雲のパジャマを羽織ってベランダへ出た。
欄干にもたれ、ゆらゆらと立ちのぼる紫煙を目でぼんやり追いながら、昨夜のことを考える。
昨夜、半ば勢いのように東雲と身体を重ねてしまったことについては、特に後悔はしていない。
そればかりか、初めてでしかも男同士だというのに、不思議なくらい違和感がなかった。
東雲はもともと普段から必要以上にベタベタしてくるし、しょっちゅう怪我を治してもらっているから、基本的に彼に触れられることにも身体を預けることにも慣れている。
さして抵抗なく身を任せ、ごく自然に受け入れられたのは、その延長というかスキンシップの一環として認識してしまったからなのだろうか。
しかし、あれをスキンシップの一言で片付けるのは、いくらなんでも無理がある。そんな生易しいものではなかったのは確かだ。
無花果を初めて食べた時にかつてない陶酔感というものを味わったが、それを遥かに凌駕する圧倒的で生々しい官能があることを身をもって思い知らされた。
むろん、肌に直接刺激が与えられるという違いもあるのだろうが、無花果のもたらす陶酔や快楽がどこか不安な危うさを孕むものであるのに対して、東雲との行為は絶対的な安心感や充足感を伴うものであった。愛欲や色情をも司りながら決して生来の清浄さを失うことのない、東雲ならではの資質のなせる技であろうか。
とはいっても、さすがの東雲も昨夜はあまり余裕はなかったようだが。蕾を気遣いながらも、情欲を宿した瞳で真っ正直に求めてくる彼は、なかなかに新鮮で悪くなかった。
はじめは翻弄されるだけだった蕾も、途中からはむしろ、自らの欲求のおもむくまま快楽にのめり込むように……。
「……っ」
そこまで回想した所で、具体的なあれやこれやまで思い出してしまった蕾は、独り赤面しながら慌ててそれを振り払うようにブンブンと頭を振る。
そして頭を冷やそうと関係ないことを考えるのだが、すぐに思考は東雲のことに戻ってしまう。
東雲の苦悩を見過ごせなかったのは、花を守護する時の使命感とか正義感とか、そういうものとは全く異なる感情だ。
冷静に状況だけみれば、悩みを聞き出したあとは放っておいてさっさと帰ってもよかった。
東雲も、蕾の脅しに負けて話してはみたものの、蕾に頼る気は毛頭なかったようだし、時間がたてば自然と解決したのかもしれない。
だが、蕾が原因で悩んでいる東雲に対して、何もできない自分が許せなかった。彼の憂いを晴らすために、自分にできることがあるのなら、どんなことでもしてやりたいと思った。
おそらく、何度やり直したとしても、やはり同じ結果になるだろうと思う。
この感情はなんなのだろう。
東雲のことはもちろん大切だし、かけがえのない相手であると思っている。好きか嫌いかと言われれば好きなのだろうが、彼が蕾のことを想う気持ちとは違う気がする。
かといって、薫や透が好きだというのとも何かが違う。第一、薫や透相手に抱かれようなどとは天地が逆さになっても考えられない。
だがそれを言えば、別に東雲に抱かれることだって考えたこともないはずなのだが……なぜ、あんな展開になったのか、そしてなぜ、それに舞い上がるでもなく腹をたてるでもなく、こんなにも落ち着いた穏やかな気分でいるのか。
自分の気持ちなのに、いくら考えても堂々巡りで答えが出ない。
気が付くと、ほとんど吸ってないタバコが根元近くまで灰になっていた。

あれほど悩まされていた悪夢も見ず、ぐっすりと眠った東雲は実に爽快な目覚めを迎えた。我ながら現金なものだと思いつつ傍らを見ると、そこにいた筈の姿は既にない。
一瞬、昨夜のことはすべて自分に都合のいい夢だったのではないかという不吉な考えが頭をよぎったが、隣に手を伸ばすとシーツはまだ微かに温もりを残しているし、部屋の中には名残りのように豊潤な花気が漂っている。
(帰ってしまったか)
昨夜、確かにこの腕の中で、自分だけのために、奇跡のように咲いた気高い花。
ともすると、愛されているのではないかと錯覚してしまうほどの濃密な交わり。あのひとときだけは、間違いなく彼は自分のものだった。
しかし、やはりその本質は風なのだ。気紛れで、執着がなく、ひとところに留まるようなことはないのだろう。
わかっていても僅かな期待をしていたので、ついつい溜め息が零れてしまう。
「朝っぱらから鬱陶しい顔をするな」
いきなり声がして、東雲は文字通り飛び上がった。
「蕾!? いたのかい?」
慌てる東雲に、カーテンの隙間から蕾のイヤそうな顔が覗く。
「いて悪いか。 帰っほうがよいのならそうするが」
「そんなわけないだろう!」
どうやら蕾はベランダで一服していただけらしい。
安堵して表情を緩めた東雲は、しかし、部屋に戻ってきたその姿を見て固まった。
「君…その格好で外へ出たの?」
「おまえは寝てたのだから別にいいだろう」
蕾は、勝手に東雲のパジャマを着たことを言われたと思っている。
「いや、そういう問題ではなくてだね。 誰かに見られでもしたら…」
大きめのパジャマからスラリとのびた足が、なんとも色っぽい。しかも前は、申し訳程度にボタンを1つ留めただけ。通りすがりの他人に、この煽情的な姿を見せるのは勘弁して欲しい。
「?裸でなければ何でもよかろう。 だいたいこんな所、誰も通らんわ」
確かに露出している部分をみれば足と胸元だけなので、蕾の普段着と大差ない。が、このシチュエーションで肝心なのは露出の大小ではない。
しかし、それを蕾に説明して納得してもらえる自信はなかったし、幸い誰にも見られなかったようなので、東雲はあえなく抗議を飲み込んだ。
「…それにしても随分と早起きしたものだね」
「おまえがぐーすか眠っていただけで、ちっとも早くはないがな。 ほら」
蕾が勢い良くカーテンを開け放つと、くっきりとした日ざしが差し込んできた。夏の太陽はすでにかなりの高さになっている。十時を回ったくらいだろうか。
休みだとはいえ、随分と寝過ごしてしまったようだ。
眩しさに目を細めている東雲の頭上に、突然、何かが降ってきた。
「!?」
「おまえこそ、いつまでそんな格好でいるつもりだ」
顔に覆い被さってきたものをどけてみれば、蕾が今まで羽織ってた東雲のパジャマである。それを、いまだ裸のままベッドに上半身を起こしている東雲に放り投げてよこして、蕾はさっさと自分の服を着ている所だった。
あまりにも普段通りな蕾の態度に拍子抜けした東雲は、服を着ながら、ついつい、
「せっかく初めての朝だといのに、もう少し、こう、趣きというかムードが欲しくはないかね」
と言ってみたら、顔面に鉄拳が飛んできた。
「いいか東雲、調子に乗るなよ。 昨夜は特別だからな。 オレは花を守るのが務めだ。 花が恙なく咲くためには、四季の筆頭である東皇使が腑抜けていては始まらないから、仕方なくおまえの憂いを晴らしてやっただけでだな、おまえが考えているような不埒な意味はないからなっ。 別にオレは、おまえを、その…だからっ、おまえと」
「想い合っているわけではないから勘違いするな、と」
しどろもどろで弁明する蕾を、つい冷静にフォローしてしまった。
「そうだ」
「だけど、君。 それじゃあ、花のためなら、もしも私以外とああいうことをする羽目になったとしても仕方ないで済ますのかい?」
「なっ…たわけたことを言うな! オレがそんなことするわけなかろうが!」
「では、君と枕を共にしていいのは私だけということだね?」
「…っ」
タチの悪い誘導尋問だ。窺うように言う東雲に、蕾は二の句が継げなくなる。
先ほどベランダで延々考えていたことの答えは、つまりはそういうことになるのだろうか。しかし、東雲が言うと、なぜか若干ニュアンスが違うように聞こえるのは蕾の気のせいだけではあるまい。
「し…知らんっ! 自分で考えろ」
「では、とりあえず、そういうことにしておいておくれ」
たしかに蕾は自分に恋をしているわけではない。
しかし潔癖な彼が、ただの使命感や義務感だけで、あんなことを許すはずも決してないのだ。東雲とて、だてに幼馴染みはやっていない。それくらいのことは本人以上に理解している。
そう考えるとわかるのは、東雲に対する友情だけではない別の感情の存在。まだ、恋情や愛情などと名前をつけられるほどハッキリとしたものではないし、蕾自身も自覚できていないだろう。ましてやこの先、その気持ちがどんなふうに育っていくかもわからない。
しかし、そのなんらかの感情の存在は、東雲にとって身体を交わしたことと同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に大きな意味を持つ。蕾の中のほんの一角かもしれないが、東雲だけが独占している場所が確かにあるということの証だ。
もう、あの悪夢に悩まされることはあるまい。
欲をいえば彼自身もそのあたりを自覚してくれれば、もう少し進展するのかもしれないが、それは贅沢というものだろう。
まあ、今の所はこれでよしとしなくては…
「なんか言ったか」
思わず声に出してしまったようで、帰ろうとして窓に手を掛けた蕾が聞き咎める。
「なんでもないよ、気をつけてお帰り」
蕾は疑わしそうに東雲を見ていたが、つかつかと近寄ってきていきなりその唇を奪った。
「!?」
「くだらないことでウジウジ悩まれるのは目障りだ。 憂いのある時はオレを呼べ。 いいな」
そう言い捨てると、呆然としている東雲を後目にあっという間に飛んでいってしまった。
今のは、ただ単に悩みを聞いてくれるということか?
それとも、ひょっとして、次があるということだろうか?
…あらたな混乱を抱えてしまった東雲だが、この言葉の解釈について考えるのは幸せな時間に違いない。
まったく彼にはかなわない。
今後もこんな風に蕾の一言一句、一挙一動に振り回され続けるのだろう。二人の立場がどんなに変わろうとも、その関係だけは変わらないと断言できる。
だが、それこそが最も自分達らしいのかもしれない。
東雲は晴れ晴れとした面持ちでベランダに出て、蕾が向かったであろう透のマンションの方角へ目を向ける。
このきっかけを作ってくれた透には、感謝してもしきれない。
しばらくは彼のどんな無茶な誘いも断れないな、と苦笑しながら、東雲は夏の太陽をいつまでも眩しそうに眺めていた。
END
もし二人が一線を越えたことがあったとすれば、初めてはいつか。
腐女子としては、やはりそこを妄想しないわけにはいきません(笑)。
原作で考えると、第九皇子の存在が大きいので「秘迷言」以降はちょっと難しいかな〜、と。
そうなると、その前で、東雲がけっこうテンパってるのが「酔狂果」。
このタイミングがベストじゃないかと思って書いた話です。
例によって中編くらいまで書いてほっぽってあったので、後編はほぼ書き下ろしました。
なので、随所に春指南3の影響が見られる気が…^^;
ちょこっと透視点のオマケもあります。