還春郷 <2>





「…………なんでいるんだ………」


 そう言ったまま、蕾は絶句してしまった。
 しかし、驚いているのは室内の人物も同様だったようで、椅子から半分腰を浮かせた状態で振り返り、目を見開いている。

「…蕾……?…どうして、君がここに……」

 その声はまさしく、今ここに居るはずのないこの部屋の主、東皇使東雲のものであった。

 蕾は極度の混乱で何も考えられない状態だったが、耳に入ってきた言葉にただ反射的に言葉を返す。
「……オレは、ここに灯りが点いていると報告を受けて………それで、何かあっては困るからと、念のため確かめに……」
「ああ…そうか……見回りの花士が…」
 お互い、驚きのあまり言葉が続かない。

 だが、東雲が戻るなどとは露ほども思っていなかった蕾よりは、東雲の方が立ち直りが早かった。窓枠に乗ったまま固まっている蕾に声を掛ける。
「えっ…と、……とりあえず、そんな所ではなんだから、お入りよ」

 蕾はそんな言葉も聞こえていないかのように、相変わらず立ち尽くしている。
 東雲は立ち上がって蕾に近づくと、彼の手をとって窓から降りるよう軽く促してやった。蕾としては、どう考えても幻としか思えなかったのだが、手を握られた感触とその暖かさを感じて、ようやくこれは現実なのだとおぼろげながらも理解する。
 おぼつかない足取りで窓から降りて、東雲に導かれるまま室内へと入った。

 しかし、頭では理解したものの、まだ感情がついてきていない。蕾の意志とは無関係のところで、口だけが勝手に動いて、言葉を紡いでいく。

「……なんで、おまえ……修業…は……どうした」
「ああ、まあ、なんとか無事に終わったよ」
「…そんなハズがあるか。 まだ……たったの、八年ではないか。 百年はかかると…」
「それは、ほら、私がものすごく優秀だから。 でも、私も二十年くらいはかかると思っていたけれど、まさかこんなに早く卒業できるとはね」
 普段ならば、すかさず鉄拳が飛んでくるであろう台詞だが、まだ茫然自失状態の蕾はそこまで頭が回っていないようだ。というか、ちゃんと聞こえているのかどうかも怪しい。

「……いつ、戻ったのだ」
「少し前に。 向こうを出た時はまだ陽が傾く前だったんだけど、山を降りるのに思いのほか時間がかかってしまってね」
「…他のヤツには知らせたのか」
 いろいろ話したい事があるはずなのだが、なんだか現実味がなさ過ぎて業務連絡のような質問しか出てこない。

「いや。 自分で戻った方が早いと思ったから先触れも出さなかったし、戻ってきてみたら結構遅くて皆もう休んでいるようだったから、まだ誰にも。 兄上達にも、明日の朝一番で正式に報告するつもりだよ。 たぶん、こんなに早く帰るとは誰も思っていないだろうね。 ふふ…まさか一番に君に会えるとは思ってもみなかった」

 嬉しそうにそう言うと、東雲は柔らかく目を細めて蕾を見つめてくる。

「君は変わっていないね………元気だったかい?」

 ドクン。
 またしても蕾の心臓が大きく跳ねた。
 東雲だって、なにも変わっていない。以前と同じ穏やかな春の微笑みに、目が離せなくなる。

「………見ての通りだ」
 かろうじて言葉を絞り出した蕾に、東雲は苦笑した。

 蕾がいまだ衝撃冷めやらぬ状態であるのに対して、東雲はすでにいつもの調子に戻っているので、軽くからかうような口調になる。
「やれやれ、随分と久しぶりだというのに、変わらないにもほどがあるよ。 少しくらい再会を喜んでくれてもいいのではないかね。 それとも、あまりの感動で言葉も出ない?」
「…なに、言って……」
 いつもならムキになって怒鳴ったり、憎まれ口を叩く所だが、今の蕾では東雲の言葉に全く対応できない。
 言葉が途切れたまま黙りこんでしまった蕾に、さすがの東雲も心配そうな顔になる。
「蕾?」

 蕾としても積もる話をしたいのは山々なのだが、このままではまともに会話ができないし、こんな状態で東雲に会話の主導権を握られてしまったら分が悪すぎると悟った。
 そこで、とりあえず冷静になるために、この場を仕切り直すことにする。
「……事情はわかったから、オレはいったん華恭苑に戻る」

「え!? ちょっ、なんで! 蕾?」
 焦ったのは東雲だ。
 せっかく会えたのに、もう帰ってしまうのか。まだまだ、話したいことが山ほどあるというのに。
「うまく頭が働かんから、ちょっと頭を冷やしてくる」
 蕾は言外にすぐ戻ると言ったつもりだったが、東雲はそうは受け取らなかった。
「待ちなさい、蕾っ……」
 言いざま、東雲は反射的に手を伸ばす。

「…ッ!?」
 踵を返そうとしたところを思い切り腕を引かれてバランスを崩した蕾は、勢いよく東雲の方へと倒れ込んでしまった。
 東雲がしっかりと受け止めてくれたため事なきを得たものの、それとこれとは話が別だ。すぐさま盛大に文句を言おうとした蕾だったが、顔を上げた瞬間、その目を大きく見開いた。
 蕾の身体は、すっぽりと東雲の腕の中に収まっていたのである。
「お、オイっ……」

「……蕾っ…………」
 抗議する間もなく東雲に思うさま抱きすくめられ、全身を彼のぬくもりに包まれる。

 衣服ごしに、幻ではない、暖かい感触が伝わってくるのを感じて、蕾はあまりの懐かしさに不覚にも目眩がしてしまった。
 ああ、これだ。
 この八年間、ずっと物足りなかった、ずっと満たされなかった場所が、寸分違わず埋められていく感覚。
 この圧倒的な充足感は、なんなのだろう。

「……蕾………………会いたかった…………」
 きつく抱き締められながら、感極まったように絞り出された東雲の声を聞いて、そうか、こいつもそうだったのかと、今更ながらに思い当たる。

 もはや抵抗する気など完全に失せてしまった。
 全身の強ばりを解いて東雲に身体を預け、その背にそっと腕を回す。それから、目を閉じると大きく深呼吸をして、懐かしい香りを胸一杯に吸い込んでみた。
 事ここに至ってやっと、東雲が帰ってきたのだという実感が湧いてきた。その実感が、柔らかい森の香りと共に、ゆっくりと全身に浸透していく。

「……東雲……」
 本人を前にその名を呼ぶのは、実に八年ぶりだ。
 久しぶりに唇に乗せたその響きは、ほんの呟くほどの声だったのに、自分の耳にやけにハッキリと届く。
 しかも、まるでそれが何か特別な合図、あるいは秘密の呪文かなにかであったかのように、名前を口にした途端、彼がいなかった空白の時間が蕾の中から跡形もなく消えてしまった。
 東雲と酒を酌み交わして別れたのが、つい昨日のことのようだ。それくらい、今、ここでこうしているのがごく当たり前の状態に思えてくる。

 そんなことを考えながら穏やかな満足感に浸っていた蕾だったが、しばらくすると、今度はなぜだか無性に可笑しくなってきた。特に何かあったわけでもないというのに、さっきまでの衝撃と動揺の反動なのか、わけもなく浮き立つような愉快な気持ちがこみ上げてくる。
 ついには本当に、東雲の胸元に顔を埋めたまま、くっくっと肩を震わせて笑い始めてしまった。

 そんな蕾の様子を怪訝に思った東雲は、ようやく腕を緩めて蕾を解放した。
「……蕾? どうかした?」
「いや、だって、おまえ………いくらなんでも、早すぎるわ。 なにが百年だ」
 笑いを含んだ声に、なぜ蕾が笑っているのかワケが分からない東雲はポカンとしてしまう。
 だが、口元を押さえていかにも可笑しそうに笑う蕾を見ていたら、いつしか東雲の顔も幸せそうに綻んでいった。

「まあねぇ。 私も普通よりは早いだろうとは思っていたけど、さすがにこれほどまでとは思っていなかったよ。 あまりに才能がありすぎるのも考えものということ……ッ!たッ」
 今度はすかさず拳骨を見舞われた。
 かなり手加減してくれているとはいえ、殴られるのも八年ぶりだ。けっこうな衝撃を久々に喰らってしまい、東雲は頭を抑えてうめいている。

 そんな東雲を見ながら、すでに完全に己を取り戻した蕾はニヤリと笑って追い打ちをかけた。
「そんなことを言っているわりには、随分と里心がついていたようではないか。 緑修天司になろうかという者が、たかだか八年でホームシックか?」
 しかし、口では東雲も負けてはいない。余裕の笑みで切り返す。
「そういう君だって、さっきはけっこう満更でもなさそうだったじゃないか。 あの様子では、私がいなくて相当に寂しかったのではないのかね?」
「っ!…そっ、そんなワケがあるかっ。 うぬぼれるのも大概にしろ!」
 少しは思い当たるフシがあるのか、真っ赤な顔で怒鳴る蕾。そんな蕾の様子が、東雲にとってはこの上なく嬉しいようだ。
「その割には全然抵抗しなかったし、しっかりと抱き返してくれたよね」
「だっ……あ、あれは…っ、ち、違う……おまえがあまりにも情けない声を出してオレにしがみついてくるから、仕方なく宥めてやっていたんだろうが!」
 こういう時の蕾は、本当にからかいがいがある。もう少しつつきたい所だったが、情けない声と言われてしまうと、東雲自身、大いに自覚があるだけにいささかバツが悪くなった。
「いや、それはほら、君がいきなり帰るとか言い出すから、ちょっと驚いて」
「別に帰るとは言ってない。 百年修業を八年で終えてきた非常識さに頭が痛くなったから、少しばかり頭を冷やしてくると言っただけだ」
「非常識って、君ねぇ……」
 あんまりな蕾の言葉に、怒るよりも脱力してしまう。
「本当のことだろうが」
「いいけどね……それで結局、頭は冷えたのかい?」
「まあな。 そもそもおまえ自体が非常識なのだから、それも有りかと考え直したのだ」
「失敬な、人聞きの悪いことを言わないでおくれ。 でもまあ、今回は私自身も、自分のあまりの優秀さに驚いてしまったくらいだから、君に理解できないのは仕方ないのかもしれないけど」
「ふん、どうだかな。 大方、早く帰りたくなったから、必死になって大急ぎで修業していたとかではないのか」
「………」
 鋭い。
 当たらずとも遠からずな蕾の言葉に、東雲は何も言えなくなってしまう。
 そして同時に、なんのためにこんなに早く帰ってくることにしたのか、その一番の理由を思い出した。

 円時山ではっきりと自覚し、そして胸に抱いて戻ってきた、ある想い。

 正直なところ、こんなに早く蕾に会えるとは思っていなかったので、まだ心の準備ができていない。
 だが、いつもの感じでやりとりができたことで、二人の間にあった八年のブランクはすっかりなくなったし、言うなら今、このタイミングしかないだろうと腹を括った。

「………そうだね。 確かに、できるだけ早く終わらせたいという目標があったからこそ、頑張って修業に打ち込めたという所はあるかもしれない」
「ほう」
 素直に認めた東雲に、蕾が少し意外そうな顔をした。
 そんな蕾を正面から見据えて、東雲は真顔で尋ねる。
「私がなぜ早く帰りたかったか、理由を聞きたい?」
「? オレは別にどうでもいいが、おまえがどうしても話したいというのなら聞いてやる。 さっさと言え」
 少し改まった東雲に、蕾はさして疑問も抱かない様子で先を促す。

 東雲は心を落ち着けるため一拍おいて深呼吸すると、蕾の瞳をまっすぐに見つめた。

 そして、誰よりも愛しい相手に、あらん限りの想いを込めて告げる。


「蕾。 君が、好きだ。 幻の初恋の姫君としてではなく、私はずっと君自身に恋をしていた」





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この話の東雲は、「語り部屋」の<9・東雲の恋心>での考察&妄想をベースにしています。 未読の方は先にそちらを読んでいただくと、次回以降の東雲の心情的な部分がよりわかりやすいかな〜と思います



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