「これで、そなたは円時山におけるすべての課程を修了した。これよりは己自身を修業の場としてさらなる刻苦研鑽に励み、授かった叡智を磨き上げ聖性を研ぎ澄ますことに邁進せよ。 ここに、円時山よりの退室を許可する」
天地における最高の賢者、瞭道博師から直々にその言葉を拝領できるというのは、円時山で修業する者にとって最高の栄誉である。
「ありがとうございました」
深々と礼をとり、東雲は感慨深く師の姿を眺めた。
普通の樹仙ならば百年はかかるという修業。だが、東雲は八年という驚異的な記録でそれを究めるに至った。
初めの三年くらいは、知識がどんどんと広がり深まっていくのが純粋に面白く、しばしば寝食を忘れるほどに修業にのめり込んだ。ありとあらゆる事柄を際限なく取り込んでいく東雲の様子は、まるで乾ききった大地が雨水を吸収し続けているかの如くであった。ここまでが修業全体のおよそ三割、百年に換算すると三十年分くらいにあたる。
その段階を過ぎると、今度はその知識を再構築して自分の智慧として蓄積していかなければならない。と同時に、天神界の神威に則って聖性を磨くという、精神的な修業が本格化する。通常だったら、五十年以上がこれらの修業にあてられる計算だ。
純粋で正しい事だけではなく、この世界が内包する醜く邪悪な事、矛盾する事柄とどのように折り合いをつけていくべきか、それらを容認した上でいかに聖性を保ち高めていくべきか、それを自ら体得しなければならない。
聖仙郷しか知らず全く穢れのない聖仙達はこの段階で相当に苦労するようだが、東雲はそれさえも瞬く間に習得してしまった。
下界での留学や蕾と共に巻き込まれた数々の事件で知った、迷いや矛盾、罪悪感や無力感、そして激しい憎悪。聖仙にあるまじき負の感情を抱き、それらと正面から向き合い、受け入れてきたことで、すでに精神的な強さとしなやかさ、清濁併せ持った柔軟な思考力を備えるに至っていたからであろう。
東雲が凄いのは勿論なのだが、もう一つの大きな要因を挙げるならば、師が瞭道博師であったことだ。
森羅万象に精通し、天界・天神界はもとより、畏界や魔神界、さらには俗界のいかなる専門的な事象についてもその知識に綻びがない。
だが、師とはいえ一から十まで手取り足取り教えてくれるわけではなく、東雲が理解し洞察を深めていくその遥か先の道を、僅かに照らしてくれるだけだ。そこに自力で到達できない者には、教えを請う資格すらない。言うまでもなく、それは想像を絶するような厳しい道のりであったが、天賦の才に恵まれた上、人一倍の努力を続けた東雲ゆえに、誰も為し得ないほどの早さですべての課程を成就することができたのだ。
もしも、他の師に就いて通常のやり方で修業をしていたとしたら、どんなに早くても二、三十年はかかっていただろう。

東雲は簡素な部屋へ戻ると、身の回りの物を片付け、少ない荷物を手早くまとめた。それから、修業用の装束を脱ぎ、身体を清めてから、入室するときに着てきた東皇使の正装へと着替える。さんざん着慣れていたはずなのに、八年ぶりに袖を通してみると、どこか新鮮で面映ゆい。
これは己の内面というか心のありようが、この八年で大きく変わったということなのだろうか。それとも逆に、心の深い所はあまり変わっていないということかもしれない。
まだ陽の高い時間で修業中の者もいるので、大仰な見送りはない。世話になった人々への挨拶などを一通り済ませると、東雲は一人、神扇山へと続く門へ向かった。
円時山は聖仙郷とは時空が違う。
入室するときには、いくつもの関門がありそれなりの手順が必要なため、幾人かの護衛や見送りもあったが、帰りはただ門を出るだけだ。また、修業中は一切の連絡が絶たれていたので、神扇山に修業が終わったことを伝える術もなく、必然的に出迎えもない。
一応、門の傍らには連絡所兼待機所として使われている詰所もあるのだが、今さら先触れを出して誰かに迎えに来てもらうより、自分で帰ってしまった方が早い。
それに、こんなに短期間で修業が終わるとは誰も思っていないだろうから、帰還の連絡などしたら無用な混乱を招くことにもなりかねない。
自分でも驚くほどの早さで卒業できたことを考えると、なぜか少し苦笑が混じる。
その大きな原動力となった、ある一つの想いを胸に、東雲は懐かしい故郷へと戻っていった。







東雲が円時山に入室してそろそろ八年。
聖仙郷に春の使いが居なくても、変わらず春は巡ってくる。
東雲が円時山に行ってからというもの、蕾はこの時期、特に気が重い。東雲の不在自体がどうこうというよりも、時間の無駄だと分かっているのに無意識に思い出してしまうのが鬱陶しいのだ。
下界に堕とされて東雲と再会する前は、幼馴染みとはいっても、かなり長い期間、それこそ十年単位で会わないこともざらにあった。そんな状態でも特に何とも思わなかったので、今回も別に平気だろうと高を括っていたのだが、見通しが甘かったのだろうか。
それとも、いつでも会えると思って会わないでいるのと、本当に会えなくなるのとでは、違うのだろうか。
あるいは、東雲に対する認識が昔とは変わったということなのだろうか。
まだたったの八年だというのに、自分でも呆れるくらい、折に触れて東雲のことが思い浮かぶ。花将としての仕事をしている時や重大事があるときではなく、日常の何気ない瞬間、ぽっかりと空いた隙間に、ふとその面影を探してしまうのだ。
たとえば、ささいな疑問をぶつけたい時。
たとえば、ちょっとしたことで誰かの手を借りたい時。
たとえば、とりとめのない話をしたい時。
たとえば、なんとなく退屈な時。
口下手な蕾が発する最小限の言葉や態度だけで、言いたいことやその心情までをも酌み取ってしまう相手。いなくなって初めて、その存在が占めていた場所の大きさを思い知らされた。
一年目は、周りの者達、薫や透、曄や萌葱など、皆、似たような状態だったので、近くに居た者との別れはこんなものなのだろうと思っていた。
二年目には、気にしていないように振る舞えるようになったし、しばらくすれば思い出すこともなくなるだろうと、あまり気に留めなかった。
しかし、三年目を過ぎ四年目も越え、五年目を迎える頃には、何故こんなにも思い出してしまうのだろうかと考えることが多くなった。聖仙郷ではすでに東雲がいないことが当然になっていて、それも蕾を戸惑わせた。よく考えれば、東雲は少し前にも下界に数年間留学していたのだし、儀式などで戻ることがなくなったくらいで、聖仙郷での不在は織り込み済みだったのかもしれないが…。
六年を経過した頃からは、もはや諦めの境地というか、理由を考えるのを断念した。
さらに最近では、百年先までこんな状態で過ごさなければいけないのかと、東雲を恨む気持ちさえ芽生えてくる始末だ。
透にはよく「寂しいんだろ」と言われるが、そうなのだろうか。会いたいかと言われれば否定はしないが、ただ一目会ってそれで満足するかというとそうとも思えない。
昔、父が一度も自分に会いに来ないのを寂しく思った事もあったが、そんな時の、自分の存在が顧みられていないような心細さや恨めしさとは全く違う。
かといって、会えないのが辛いとか悲しいとか、そういうわけでもないし、恋しいとか愛しいとかいう感情でもないと思う。
ただ漠然と、どこかが満たされていない気がする。
要するに、なんだか物足りないのだ。
居るべき所に居るべき者が居ない、という、その欠落感が常にまとわりついて離れない。



「上将、こちらにおいででしたか」
ぼんやりと夜更けの華恭苑を歩きながら、習慣になってしまった物思いに耽っていた蕾だったが、紫水将軍の声で現実に引き戻された。
「紫士か、どうした」
「はっ、先ほど配下の者から報告があったのですが、東皇使さまの庵に灯りが入っていると…」
紫軍は、聖仙郷全域の巡回を担当している。当然、神扇山もその範囲に含まれる。だが。
「庵? 黎明殿ではなくて?」
蕾は眉をひそめた。
東皇使の正殿である黎明殿は、たとえ主が長期間不在でも、日々の祈祷や供饌のためなどに、常に幾人かが詰めている。樹仙達は朝も夜も早いが、勉強熱心な者も多いので夜更けまで灯りが点っていることもたまにある。特に今は春を迎える時期だから、儀式の準備などいろいろとあるのかもしれない。
しかし、黎明殿に隣接する庵は、いわば東雲の私室だ。定期的に掃除は入っているだろうが、こんな夜更けに灯りがついているというのは合点がいかない。何者かが入り込んでいるのであろうか。
「一応、某も遠目に確認いたしましたところ、確かに庵だけに灯りが点っているようでした。 ただ、不審な様子や物音などはなく、騒ぎになっているわけでもないので、そのままにしておいてもよいものかどうか上将に判断を仰ぎたく…」
もとより一切の穢れは入り込めぬはずの聖仙郷だ。くせ者である可能性は低い。何らかの理由で、他の樹仙、たとえば萌葱あたりが研究だか勉強だかの資料を探しに、あるいは、まさかとは思うが曄が寂しさのあまり入り込んだということも考えられる。
先ほどまでの己の懊悩を見透かされたような気になってしまう。
変に思い出すのがイヤで、東雲が円時山に行ってからは特に用がない限り神扇山に近づく事はなかった。しかし、ここで何かあっては東雲に申し訳がたたぬし、再会した時に嫌味でも言われてはたまらないので、天界を守る総大将として確認しておく必要があるだろう。
「あいわかった。 なにか事情があるかもしれぬし、とりあえずオレが確かめてくる。 おまえは持ち場に戻れ」
「はっ」
そして蕾は、久方ぶりに神扇山に向かった。
東雲の庵には、確かに灯りが点いていた。しかし、人に言えない目的で密かに忍び込んだ者ならば、こんな風に無防備に明るくすることはないだろう。周りの建物がすっかり闇に沈んでいるだけに、僅かな灯りでも結構目立つ。
これはいよいよ勝手を知っている者、萌葱か、その父であり東雲の兄である五百重あたりが、なんらかの理由で入り込んでいる可能性が高くなった。
表から訪ねるべきか迷ったが、もしも内密な用向きだったらあまり表沙汰にしない方がよいだろう。
蕾は、とりあえず、慣れ親しんだ窓から室内の様子を探るべく、裏へ回り込んだ。
窓に近づくと、室内には確かに人の気配がする。
しかし、その気配は、決して、今ここにあるはずのないのものであった。
いや、まさか。そんなことがあるワケがない。
だが、これは。
この部屋に最もふさわしく、そして蕾にとっても最も馴染みのある、この気配は。
一瞬、混乱しかけたが、しかし、それは絶対にあり得ないことだ、と頭の片隅で冷静に考える。この部屋に人がいるのが久しぶりだから、似たような樹仙の気を錯覚してしまっているだけなのだろう。
わかっていてもそれを確かめてしまうのがなぜか残念な気がして、しばし躊躇してしまったが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
蕾は身軽に窓枠に乗り上げると、室内にいる人物の姿をはっきりと認めた。
そして、蕾は、これ以上ないほどの驚愕に見舞われることとなった。
「…………なんでいるんだ………」
今までのネタはすべて、昔、考えたり書いたりした話の焼き直しだったんですが、
とうとうストックがなくなったので、新年にふさわしく(?)オール書き下ろしの新作、しかもまさかの連載です。
4〜5回で終わるつもりですが…まだ、なにもかもが未定です。
というわけで更新速度もこれまでより確実に遅くなるとは思いますが(^^;)、まったりとおつき合いください〜