宵待花 後編







 翌晩。


 もうじき月が現れる。
 待宵草の群れの中に佇み、蕾は雲が切れるのを待っていた。

 昼は眠り、夜に目覚める待宵草。
 桂男馬とのひとときの逢瀬だけを頼みに、短い花季を懸命に咲く。
 小難しい理屈抜きに、本能のまま、ただ純粋に伴侶を求めるからこそ美しく咲けるのだ。
 しがらみや過去に囚われ、余計なことを考えれば考えるだけ、自分の心がわからなくなる。

 昨晩、東雲に聞かれたこと―――蕾は東雲をどう思っているのか。
 わからないといったのは紛れもない本心で、答えがあるのなら蕾の方こそ教えて欲しい。
 もちろん嫌いなわけはないし、信頼もしている。大切な相手だ。
 だが、それだけではあんな事をする理由にはならない。
 なぜ東雲の所に行ったのか。
 自分でも気付いていない理由があるのか。
 それとも、本当にただの本能で理由などないのだろうか。
 ―――本能? なんの?
 相手が女だったら生殖だとかそういう本能を感じることがあるかもしれないが、東雲は男だ。
 だとしたら、それは一体何なのだろう……。


 ぼんやりと物思いに耽っていたら、教行に見つかった。

 じきに、雲が切れたら桂男馬が降りてくるというのに邪魔くさい。
 あの女と一緒に花でも見にきたというならまだわかるが、こんな所に一人で何をやっているのだ。
 夏の宵、あらゆる生命が最も開放的に大胆になる季節。人間どもは言うに及ばず、花や月だって束の間の逢瀬を心待ちにしているというのに。
 色事を大の苦手とする蕾ですら、いつもと違う自分の心身に少なからず戸惑っているというのに。
 東皇使がそばにいるのに、相変わらず何の進展もなく呑気に一人で夜の散歩とは。この男もこの男だが、あいつは何をやっているのだという、東雲に対する半ば八つ当たり的な感情もなかったとは言わない。
 はじめは無視するつもりだったのだが、脳天気に話しかけてくるお気楽男を、少しばかり刺激してやるのも面白いかと思い直した。鬱憤を晴らすにはうってつけだ。

 悪くない思いつきに機嫌を直した蕾は、教行の手を取って隠れさせ花精らの逢瀬を見せてやる。
 あんぐりと口を開き、この世のものではない美しい光景に言葉もなく見入って呆けている教行を見て、蕾もなんだか気が晴れたので、教行を眠らせてからその場を離れた。



     



 夕刻に教授とともに戻ってきた東雲は、教行を捜すのを口実に外へ出た。


 今朝、東雲が起きた時には、蕾はまだ傍らで寝ていた。
 なんとも満ち足りた気分でしばらくその寝顔を眺めていたのだが、一向に起きる気配がないので、ひとまず身支度をして食堂へ行った。そして、戻ってきたら部屋はすでにもぬけの空だった。
 部屋に漂う残り香が次第に薄まっていくのを名残惜しく思いながらも、頭の中には、やはり、という諦めが広がっていた。
 もう、ここにいる間は顔を合わせてくれないかもしれない。
 そしてまた、帰ったらただの幼馴染みに戻ってしまうのだろう。
 何かが変わるかもしれないと思ったのは、錯覚だったのか。
 一年のほんの僅かな期間、しかも夜にしか咲かない待宵草の花精は、その時期以外に姿を見せることはない。
 ましてや、奇跡のように滅多に咲くことのない気まぐれな花を、ずっと手にしていたいなどと願うのは、無謀以外の何物でもないだろう。


 そんなことを自嘲半分で考えながらも、東雲は一縷の望みを託して待宵草の所へとやってきた。

 やはり蕾の姿はなかったのだが、そもそもの目的である教行を見つけた。何故だかぐっすりと眠っている教行に近づいた時、ほのかに漂うその芳香に気が付いた。
 もう少し早く来ていれば…、と悔やんでみても後悔先にたたず。
 とりあえず教行を起こした東雲は、その様子から、蕾が彼に花精らの逢瀬を見せたのだと察した。
 蕾が何のつもりでそんなことをしたのかは分からないが、東雲に近しい教行にあえて関わったということは、それほど機嫌は悪くない、というか、もしかしてけっこう機嫌が良かったのだろうか。
 だとしたらこれはいい兆候かもしれない、と少し気分が上を向いた東雲は、教行を伴って宿へと戻っていった。




   



 さらに次の晩。


 夜海龍を難なく封じて、桂男馬と待宵草の逢瀬を見届けた蕾は、ふと辺りの気配を探った。海妖たちも全て花縛したハズなのに、いまだどこか妖しく不穏な空気が漂っているように感じる。
 怪訝に思って気配のする方へと飛んでいったら、見知らぬ女を抱えた東雲を見つけた。
 妖気の元はその女だったらしく、ちょうど東雲が彼女を眠らせたところのようだ。
 東雲と顔を合わせるのは、あれ以来だ。何もなくただ逢うのは気まずいかと思っていたが、口実があって丁度よかった。
「東雲…」
 声をかけつつ、彼のそばに降り立つ。


 ようやく蕾に会えた。
 やはり、まったく態度は変わらない、いつも通りに戻ってしまったかと思いきや少々様子が違っていた。
 まさか蕾が東雲に向かって「愛欲の闇」などという直截な言葉を使うとは。
 と、そこでようやく蕾の状態に思い当たった。
 自分では気付いていないのだろうか。
 夜海龍との闘いは済んだはずなのに、依然として強い花気を放出している。
 戦闘で一気に花気を高めたものの、さして手強い敵ではないから簡単に終わってしまい、不完全燃焼なのだろう。収まりきれないその花気の昂ぶりは、何かに似ていると思わないかい。

「…見えてしまったんだよ。 愛欲というのも私の管轄だから」

 愛する者同士を見ると引き裂かずにはいられなくなる女性。
 待宵草との逢瀬に降り立つ桂男馬を、奪おうとする海妖。
 伴侶がいるのに、海妖の誘いに抗えない桂男馬。
 普段は意識の奥で飼い慣らされている本能が、夏の夜、生々しい欲望となって現れる。
 そう。
 君の中にもかすかに見える……その本能は、何を求めているのか。

「……それで?」
「いや……とりあえず私はこのご婦人を家に運んで、英子さんを助け出してくるよ。 そのあとで部屋に戻るから」
 東雲はそれだけ言うと、蕾の返事を待たずに女性を抱えて飛び立った。


 蕾は、夜が明けたら海妖達の花縛を解いてやらなければならない。
 それまではここに留まるはずだ。
 今宵が最後。
 最後の賭けだ。

 今夜もし、もしも、再び蕾が部屋に来てくれたら。

 余計なことは考えず、朝までずっと抱いていよう。
 愛していると何度もその耳に吹き込んで、
 その心と身体に想いの丈を刻みつけよう。
 夏が終わっても、東雲の痕跡が消えないように。
 今度こそ忘れられなくなるように。

 ……もう、ただの幼馴染みには、戻れなくなってもいいように……。




   




 東雲が部屋に戻ると、真っ暗な中、窓辺に小さなシルエットがあった。
 片膝を抱えて窓枠に座り、身じろぎもせず暗い海を見ている。
「…蕾」
 慎重に声を掛けると、不機嫌な声だけが返ってきた。
「遅い」

 東雲は心の中で歓喜する。
 蕾が自分の意思でここへ来て東雲を待っていたことが、短い言葉に凝縮されている。

「英子さん達の捜索隊と合流していたら、けっこう時間を食ってしまってね」
 話しながら、東雲は手早く布団を敷いた。
 露骨過ぎるかもしれないが、今さら下心を隠したって仕方がない。
 窓辺に近づき、間近から声をかけた。
「蕾」

 少し間があってから、ゆっくりと蕾が東雲を振り向いた。だが、部屋の中が暗い上に月光を背にしているのでその表情は読めない。
「…なんだ」
 東雲は蕾の頬に手をかけて顔を寄せ、吐息のかかる距離で囁いた。
「君に、触れたい」
「……もう触っている」
「そうだね」
 東雲が微かに笑ってそう言ったのと同時に、二つの唇が重なった。



   



 熱い。
 繋がっている部分から、ドロドロに溶けてしまいそうだ。否、もう溶けているのかもしれない。
 どこまでが自分で、どこまでが東雲なのか。
 分からない。
 分からなくてもいい。
 このまま一つに融けてしまえばいい。
 そうすれば、何も考えなくて済む。
 愛だの恋だの、くだらないことで悩まされるのはゴメンだ。


「蕾……蕾…」
 先ほどまでとは明らかに違う切羽詰まった声音に、蕾が息を乱しながらも薄目を開くと、堪えるような東雲の顔があった。
 その表情に、蕾の背筋がゾクリと戦慄く。
 切なげに寄せられた眉、熱を孕んだ瞳、それでも蕾を慈しむように柔らかく笑みをかたどる唇。
 花々のまとう華やかな艶とは違う、深くしっとりとした吸い込まれるようななまめかしさは、東皇使ならではか。
 そう、東雲のこの表情は悪くない。
 もっと見たい。
 オレにだけ見せろ。

 不意に蕾が微笑った。

 その蠱惑的ともいえる艶然とした笑みを目の当たりにして、思わず東雲が動きを止めると、蕾はその隙に繋がったままの二人の身体を器用に反転させてしまった。何をするのかと思う間もなく、蕾はしなやかに身体を起こして東雲の上からのぞき込んできた。いわゆる騎乗位の体勢である。
 驚いたのは東雲だ。
 まさか蕾が自分からこんな…と息を呑む想いで見つめているうちに、蕾が動き始めた。
 東雲の胸に手をつき少し腰を上げては、ゆっくりと下ろす。自重で繋がりが深くなるたびに、かすかな呻きを漏らし、恍然と天井を仰いでいる。
 その目も眩むような姿態と湧き上がる芳香に、彼が紛れもなく至高の花の血を引くのだと改めて思い知らされる。
 たまらず東雲は両手で蕾の腰を支えると、蕾に合わせて自らも動き出した。
 次第に激しさを増す刺激にほどなく蕾の上半身が崩れ落ちると、東雲はそれをしっかりと胸に抱き止め、その最奥に、迸る想いを注ぎこんだ。


 欲望を解放し獣のように貪り合い、相手の存在を、何度も何度も確かめ合う。

 この瞬間に確かに存在する、この熱が、この力強い腕が、繰り返し繰り返し蕾の名を紡ぐ唇が、蕾にとっての真実だ。
 愛なんていらない。恋なんて知らない。
 この感情を何と呼ぶのかなど、どうでもいい。
 名前を付ける意味はない。
 理由を求める必要はない。 

 待宵草には、桂男馬。
 それが自然の摂理で決まっているというのならば、今、東雲とこうしていることだって、もしかしたら大きな自然の流れの中にある小さな決まり事の一つなのかもしれない。

 とりあえず、そういうことにしておこう……今は。


 恍惚とした蕾が意識を手放す、その刹那。
 次第に薄れゆく意識の片隅を、そんな思いがよぎっていった。




   




 明けて翌朝、東雲が目を覚ました時には、すでに蕾の姿はなかった。

 窓から差し込む眩ゆい朝陽。
 夏の強烈な陽射しを浴びていると、今朝が、昨夜からずっと繋がっている連続した時間だという感覚がなくなってくる。夏は、昼も夜もそれぞれの醸す雰囲気が違いすぎて、同じ時間軸ではなく、完全に隔絶された別の世界だと言った方がしっくりくるのではないかと思う。
 そしてそれは、時間だけではなく。
 夏の夜を過ごす者たちも、昼間とは全く別物なのではないだろうか。
 夏の宵のほんの刹那、東雲の前に現れたあの希有な花は、もう二度と見ることはできないのかもしれない。

 もしも。
 もしも、後先考えずに手を伸ばしたら、なにかが変わるのだろうか。
 夜にしか咲かぬ幻の花を、明るい陽光の下で見ることができるのだろうか。
 決して手に入れる事のかなわぬ花を、この手に繋ぎ止めることができるのだろうか……。



   



 夏の火照りももうしおどきだ……


 宣言通り蕾は朝一番で海妖たちの花縛を解いてやったが、海妖はまだ眠っているので、海は静穏を保ったままだ。蕾は岩場に降りて、穏やかに波打つ海を見るともなしに眺めていた。
 気付けばその岩場は、最初の夜に東雲と逢った場所だった。

 ―――あれから、たったの三日。
 たかが三日で何が変わるというのだ。


 明日からは、またいつも通り。
 何も変わらない日常を過ごすのだろう。
 透と馬鹿やって、薫の小言を聞き流し、たまに東雲とケンカして。

 東雲は幼馴染み。
 その関係は、なにがあろうとずっと変わらない。
 その筈だ。


 だが……本当に?

 問うているのは誰だろう。
 風か、それとも、蕾自身か。

 本当に変わらないと言えるのか?
 ずっと変わらぬものなど、あるだろうか。
 気付かぬうちに、少しずつ変わっているのではないのか。
 だとしたら、すでに、昔とは全く違う関係になっているのではないのか。

 この先―――自分はどうなるのだろう。
 来年、再び海妖の歌声が響く頃、自分は、そして自分達はどうなっているのか……


 確かなことなど、何一つないのかもしれない。








 了







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ようやく終わりました〜。原作のあの妖しく気怠い雰囲気を表現するのが難しくて、思った以上に苦労しました^^;
原作の東雲のセリフや蕾の最後のモノローグなどを読むにつけ、ホントこの話だけは別軸というか、ものすごく微妙で危うい関係性があるんじゃなかろうか、と長年抱き続けた妄想をなんとか形にすることができて本望ですw
最後まで読んでいただいてありがとうございました。



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