昼間、日射に晒されていた砂や岩が、夜になって蓄積された熱を放出する。
砂浜を吹き抜ける生温い風が、なにかが起こる予兆のように火照った肌を撫でていく。
そこかしこでラブシーンを繰り広げる恋人達に辟易して、ようやく見つけた静かな岩場に腰を下ろした蕾は、すぐにその気配に気付いた。
真夏の海にはあまり似つかわしくない、春の森の気配。
この浜に来て海妖の歌声を耳にした時から予感はあった。
いや、それは予感ではなく、期待、だったかもしれない。
海妖の歌声は、誘惑の響き。
心の奥底にしまい込まれた官能の記憶を、生々しく鮮やかに呼び起こす。
本能のまま快楽に溺れてしまえと、甘く気怠く囁きかける。
![]()
ずいぶん前に一度だけ、勢いというか成り行きのように東雲と身体を交したことがある。
今となっては、何がきっかけだったのかも、なぜそんな状況になったのかも、よく覚えていない。
確かなのは、一晩中、思いのままに抱き合ったということ。
その後は、互いに何事もなかったかのように日常に戻った。
態度もなにも以前と変わることなく、ただの幼馴染みとして接するうちに、本当にあれは夢の中の出来事だったのではないかと思うほどに現実感がなくなっていった……そう、あくまでも表面上は。
だが、身体に深く刻み込まれた記憶はそう簡単には消えない。
今宵、海妖の歌声を聞いて、それをまざまざと思い知らされた。
肌は今も鮮明に憶えている。
あの手を、あの唇を、そして、身体を満たしたあの熱を。
まもなくあいつがやってくる。
その時、オレはどうするのだろう。
あれこれと考えるのを放棄して、大きなうねりに飲み込まれてしまおうか……
夏の火照りのせいにして、抗い難い誘惑に、つかの間、溺れてしまおうか……
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
いつの間にか、東雲が姿を見せていた。
身に纏うオーラがいつもより濃く感じられるのは、蕾の気のせいだけではあるまい。
華やぎに満ちた春の森というよりも、生々しい生命力に満ちた盛夏の森。
濃密に葉を繁らせた木々が発する、力強くも妖しい森の空気だ。
月が隠れる。
海妖の歌声は止んだのに、心の妙なざわつきは収まらない。
一歩、また一歩、たわいもないことを話しながら東雲が近づいてくる。
不意に、ゾクリ、と蕾の背中が粟立った。
それを悟られまいと、どうでもいいことを口にする。
「お前がここにいるせいなのか この辺りにやたらいちゃつく連中が多いのは」
遠くからでも、蕾の花気が昂ぶっているのがわかった。
東雲が近づくにつれ、一段と強まっていく。
戦闘的なオーラではない、それは――情欲、だろうか。
海妖の歌声に反応したのか、周りのカップルにあてられたのか、それとも……。
「私のせいじゃないよ。 夏の夜は皆、そんな気分になるんだ……」
含みを持たせた台詞に、蕾は目だけを動かし東雲を見た。
蕾の方を見ているのかと思ったら、東雲は真っ暗な海をじっと見つめていた。
何を考えているのだろう。
「……おまえも?」
尋ねると、東雲はゆっくりと蕾を振り返り、静かに言った。
「そうだね。 私も………そして、君も…かな」
見透かされている。
そもそも、この手のことを東皇使に隠そうとするのが無理なのだ。
だが、そんなのはお互い様。
ここに蕾がいると分かっていたから、来たくせに。
睨むように東雲を一瞥し、蕾はフンと鼻を鳴らした。
「なにを言っているのか分からん」
「そう……本当に? ウソつきだね、君は」
言いながら東雲は、蕾の座っている岩へと近づく。
東雲がすぐ傍らまできた所で、蕾は東雲を振り仰いだ。
「だとしたらどうなのだ」
視線が絡み合う。
囚われているのは、どちらの方だろうか。
もう、互いに目を逸らすことすらできない。
「誘っているの?」
「…さあな」
「自分でも気付いているのだろう」
「何を」
駆け引きめいた会話に、どこか甘美な緊張感が満ちていく。
音を上げるのはどちらが先か。
均衡を破って一歩踏み出すのはどちらの方か、密やかに探り合う。
「その目……そんな目をしているくせに、まだしらばっくれる気かい」
「目がどうだというのだ」
「私にわからないとでも思ってるの」
「だから何が」
「欲情している」
「……おまえの気のせいではないのか」
蕾の瞳が挑発的に細められ、口元に艶然とした笑みが浮かんだ。
「ずるいね、君は」
我慢できなくなったのは、やはり東雲だ。
いつにない艶を含んだ蕾の視線に、抗えるわけがない。
これが無意識だとしたらタチが悪すぎる。
さすがは花……と微苦笑を浮かべて白旗を揚げた東雲が、自らの欲求に従って行動を開始した。
蕾の頤に手をかけ、視線を合わせたまま顔を寄せていく。
蕾は、そのままの姿勢で動かない。
二つの唇が重なり、すぐに離れる。
もう一度、今度はやや深く唇を押しつけ、そしてまた離れた。
二度、三度と、互いの意志を確認するように、少しずつ角度を変えていく。
遠慮があったのははじめだけで、接吻けは次第に深いものへと変わっていった。
舌先を交え口内を探り合っていく内に、身体の芯に抑えきれない欲望の火が灯る。
やがて、蕾は東雲の頭を抱えたまま、のけぞるように後ろへ体重をかけた。東雲は怪我させないように蕾の頭と背中を左腕でガードしながら、蕾の動きに合わせ折り重なるように覆い被さる。
東雲は、頭の片隅にまだかろうじて理性が残っているのを自覚してはいたが、この状態がいつまで持つか。
その間にも、接吻けは一層激しさを増していく。
舌を吸い上げ、歯列を辿り、上顎を蹂躙し、互いに競うように相手の口内を侵食する。
これ以上はダメだ。早くやめないと。
東雲の頭の奥で、警鐘が鳴り響く。
砂浜から離れているとはいえ、見通しの利く岩の上だ。こんな場所ではいつ人に見られるかわからない。
「……ン……」
だが、キスの合間に漏れる、煽るような蕾の吐息に、理性など容易く崩壊してしまう。
一旦は離れても、すぐにまた互いに引き寄せられるように唇を合わせ、より深くより激しく舌を絡ませる。
もう、止められない。
蕾の肩に添えていた東雲の右手がゆっくりと移動し、そのまま腰へと下りていった。さらにその手が下がって、蕾の腿の辺りを往復し始める。
時折、気まぐれのように手が内腿まで滑り、蕾の中心をなぞるように這っていくのだが、蕾の身体がビクリと反応するとすぐに離れて元に戻ってしまう。
高まりかけると放り出され、もどかしさで蕾が無意識に身をよじっても、焦らすように緩慢な愛撫しか与えられない。
「……し…の、…め……」
抗議なのか催促なのか、隠しきれない情欲を孕んだ蕾の言葉と、むせかえるように高まっていく花気に、いよいよ東雲も押さえが効かなくなってきた。
蕾の耳朶を甘噛みしつつ、重ねたTシャツの下から手を差し入れて、滑らかな素肌に手を這わせていく。
「……ッ…」
東雲の長い指が胸の突起に触れ、蕾は吐息をかみ殺した。東雲はそこを指先で摘んでは軽く引っ掻くように刺激を与える。
「っ…く……ゥ」
必死で声を出すまいとしている蕾の、それでも堪えきれずに零れる喘ぎがこの上なく扇情的だ。
蕾の耳を愛撫していた唇を首筋まで移動させ、東雲は蕾のハーフパンツに手を掛けた。
――――と、その時。
突然、辺り一面がパッと明るくなり、大きな破裂音がした。
「!?」
二人が弾かれたように身体を起こし動きを止めると、すぐに、浜辺の方から若者たちのワアッという歓声と拍手が聞こえてきた。
どうやら花火をしていた連中が、最後に特大の一発を打ち上げたらしい。
やがてカラフルな大輪の花はゆっくりと夜空に溶けていき、岩場には再び宵闇と静寂が戻った。
人騒がせな…とは思うものの、こんな場所でこんなことをしていて文句を言える筋合いではない。
思わず二人で顔を見合わせてしまったが、なんとも微妙な気まずい空気が漂う。
行き場がなくなって宙に浮いてしまった東雲の手をどけて、蕾は何事もなかったかのように岩に座り直した。
蕾の花気はまだ満ちたままだが、先程までの淫靡な空気はほとんど残っていない。花火と一緒に夜空へ霧散してしまったかのようだ。
仕方がない。
これからもう一度ムードを盛り上げるのは厳しいし、この場所であれ以上進めるのはリスクが大きすぎる。ここは諦めたほうが良さそうだ。
東雲は内心で溜息をつきながら、岩を下りた。
「私は宿に戻るよ」
一応、声をかけてみるが、蕾は見向きもしない。
東雲がここに来た時と同じように、膝を抱えて暗い海を見つめていた。
![]()
![]()
![]()
![]()
![]()
民宿に行く予定が決まりその浜に待宵草の群生があると聞いた時から、会えるのを期待していなかったといえば嘘になる。
しかし、この展開は予想外だった。
かつて、蕾と一夜限りに関係を持った。
蕾は東雲の気持ちを知ってはいるが、その時は想いに応えてくれたというのではなかった。蕾からすると成り行きだとか勢いだとか、そんな感じだったのだと思う。
東雲はもちろん忘れたことなどなかったが、蕾があの時のことをどう思っているのかは正直まったくわからない。蕾の東雲への態度はその後も以前と変わらなかったし、その話題には決して触れないのが暗黙の了解となってしまっていたからだ。
あまりにも変わらないので、たまに、蕾は本当に忘れてしまったのではないか、東雲のことなどどうでもいいと思っているのではないか、また逆に、思い出したくないほどに後悔しているのではないかと、そんなことはないとは思いつつも嫌なイメージが頭をよぎってしまうこともある。
だが、今夜。
もしかすると、何かが変わるかもしれない。
そんなことを考えながら田科の親類がやっている民宿に戻った東雲は、部屋に備え付けの浴衣に着替えて布団を敷いた。
夏休みとはいっても、お盆過ぎの平日ということで、けっこう空き部屋があるらしい。狭いながらも各自個室をあてがわれていた。はじめは教行と同室でも構わないと思っていたのだが、こうなってみると個室というのは心底ありがたい。
実際、あの場ですんなりと引くことができたのは、一人部屋だったからというのが大きいだろう。
「宿に戻る」という言葉に託した東雲の本音――「宿で、待っている」。
蕾にもそのニュアンスは伝わったとは思うが、来るかどうかは別問題だ。
しかし、さっきの様子ならば。
分の悪い賭けではあるが、全く望みがないわけでもない…と思いたい。
窓を開けると、心地良い海風が入ってくる。
もしも蕾が来るとしてももう少し経ってからだろうし、来なかったとしても、東雲自身こんな状態ではどうせしばらく眠れないだろう。東雲は、とりあえず一息入れて落ち着こうと、ポットに湯を沸かし茶を淹れた。
そして、明かりを消して仄暗くなった部屋の中、ぼんやりと潮騒を聞きながら、湯飲み片手にいつ来るともしれない相手を待っていた。
![]()
まもなく日付が変わる。
賭けは失敗だったかと東雲が諦めかけた頃、ようやく、窓の向こうに待ち人の姿が現れた。
来た。
東雲の心拍数が一気に跳ね上がるが、表面上はあくまで穏やかさを装う。
「蕾……こんな夜更けにどうしたんだい」
「……別に。 おまえこそまだ起きていたのか」
「なんだか眠れないからお茶を飲んでいたんだけど。 君も飲む?」
「いらん、酒はないのか」
こんな時でも蕾らしい言い種に、東雲が苦笑する。
「さすがにここにお酒はないなぁ。 でも……」
東雲は一旦言葉を切って、窓辺に立っている蕾を見上げた。
蕾は不機嫌そうに東雲を見下ろしている。先刻の事など、何もなかったかのようだ。
だが、その瞳の奥に常ならぬ色が宿っているのを、東皇使たる東雲が見逃すはずがない。
「……酔いたいのだったら、酔わせてあげようか」
東雲の言葉に蕾は一瞬眉を上げたが、すぐに挑むような眼差しになった。
「ほう……面白い。 おまえにそんなことができるのか?」
東雲は湯飲みをテーブルに置くと、意味ありげな微笑を浮かべて蕾を見返す。
「さあ、どうだろうね……試してみるかい」
情欲を隠さない互いの視線が絡み合う。
やがて蕾がフッと笑った。
「できるものなら、やってみろ」
初の裏モノです……まあなんかとりあえずいろいろスミマセン;
逢瀬岬は、原作全編を通してもっとも濃厚というか妖しく気怠げな雰囲気が漂ってる感じがします。
愛欲とか誘惑とかテーマがテーマなのに、蕾が全く照れることもなく、そして東雲が蕾をからかうこともなく、終始、互いにすごく抑制した感じで話してるし、東雲のセリフ一つ一つがなんだかとても意味深?というか。
一応、この話の二人は関係済みという設定で、お初は『短夜花莟』っぽい感じを想定してます(が、続編というわけではありません)。