「蕾っ どこへ…」
泥酔した調香師を蕾がどうするのか一抹の不安があったので、行き先がわからないままに、とりあえず東雲も後を追った。
やがて蕾が降り立ったのは、そこそこの広さのある郊外の草原。蕾は調香師を抱えたまま周囲を見回していたが、何かを見つけてそちらへと屈みこんだ。
東雲も後ろから覗いてみると、甘い芳香に鼻をくすぐられる。
「鈴蘭か。 こんな所にも咲いているのだね」
「…ついてこいと言った覚えはない」
東雲がついてきたのはもちろん知っていたが、蕾はとりあえず不機嫌そうに言ってみる。東雲にとってそんな言葉は、もはや挨拶と同義であるのだが。
「君がその人をどうするのか、心配だったものだから」
「ふん…別に無体を働くつもりはない。 憂いを晴らす手伝いをしてやるだけだ」
「彼の憂いはなんだったんだい?」
「鈴蘭の香りを作りたいが上手くいかないと言っていた」
「ああ、それで」
「だが、これでは香りを浴びるには少なすぎる……東雲おまえ、鈴蘭が群生している所を知らんか?」
「うーんそうだね…、鈴蘭といえばやっぱり北海道かな」
「ほっかいどー? どこだ、それは」
蕾は初めて聞く地名に、瞬きをして振り返った。
「北の大地だよ。 行った事ないかね?」
「知らん。 おまえはあるのか」
「北海道には何度か。ただ、私も、鈴蘭の群生地には行ったことがないのだよね。 まあ、だいたいの場所はわかるけど…」
「それでいい。 近くまでいけばオレが香りを辿れる。 今から案内できるか?」
珍しく命令形ではない、蕾のお誘いだ。天仙の仕事とは言い切れないので、東雲に対してもそれほど強くは出られないのだろう。
だが、むろん当然のように行く気満々だった東雲は、見ている方が幸せになるような暖かい笑みを浮かべた。
「わかったよ。 喜んでご一緒しよう」
再び、満天の星空の下へ飛び立つと、東雲の先導で北海道へと向かう。
「北海道とはどんな所だ」
「春が遅く短いけれど、その分、春が訪れた時の喜びは一層強いのだろうね。 早春から初夏の花が次々と競うように咲き誇っていくのはなかなかに壮観な眺めだよ。 それに、土地が広大で人の手が入っていない場所も多いから、自然が豊かで固有種も豊富だ」
蕾は相槌変わりに、チラリと東雲を見て先を促す。
「鈴蘭の群生地は、一時期、見物人が多くなりすぎて急激に荒れてしまったんだ。 ただ、その後、保全活動が広まったから、最近はけっこう回復しているみたいだけどね。 田科の研究所でも何年か前に保護調査に入っていて、その時の資料を見たことがあるのだが、かなりの広さになっていると思うよ」
「鈴蘭か…」
蕾の呟きに、そういえば、と東雲の記憶が巻き戻される。

ずっと昔、東皇使になって間もない頃。
はじめての春の時期を過ごし、お役目をなんとか滞りなく済ます事ができてホッと一息ついていた頃だったと思う。
疲れているのに気が昂って眠れないので、一人でなんとなくブラブラとしていた時にその花を見つけた。
木の影にひっそりと咲いていて姿はほとんど見えないのに、その力強い甘い香りがはっきりと存在を主張している。
鈴蘭だ。
可憐な白い花を鈴なりにつけた花々を見つけた時、なぜか、ふと、最近ずいぶん会っていない幼馴染みを思い出した。
その夜は、それだけでなんとなく良い気分になって、庵に帰ってそのまま眠った。
すると、その次の日、久しぶりにひょっこりと蕾が顔を見せたのだ。
特に何をしに来たわけでもなく、ヒマだから寄ってみたという感じだったろうと思う。東雲も特に急ぎの用事がなかったので、久しぶりに散歩でもしようと誘って、前日に見つけた鈴蘭の所へ連れていった。蕾もその場所は知らなかったらしい。
「ほお、すごいな。 こんなに咲いてるのか」
がさつで手のつけられない乱暴者だが、曲がりなりにも花の皇子なので、花を見る目は優しい。無邪気に喜ぶ蕾を見て、なんだか嬉しくなった東雲は昨日感じたことを口に出してみた。
「なんとなく君に似てるよね」
しかし、蕾はまったくピンとこなかったようで、何を言っているのか分からないような顔をした。
「オレに? そうか? どっちかというと、お前だろう」
「私? どうして?」
東雲もまったく心当たりがないので目をぱちくりとさせた。蕾はじっと東雲の顔を見ていたが、ぷいと視線をそらしてしまった。
「なんとなくだ。 まあいい、次はどこへ行く」
それでその話は終わって、またどこかへ遊びに行ったのだったと思う。

幼い頃のどうということのない光景で、天界にいた頃は東雲もすっかり忘れていた。
しかし、俗界に留学して鈴蘭の花言葉を知った時、その場面がやけにはっきりと蘇ってきた。
本人に言ったら怒りそうだが、やはり自分の直感は正しかったと一人笑ったものだ。
そんなふうに東雲が懐かしい思い出に心を馳せていると、不意に隣を飛んでいた蕾のスピードが上がった。地上付近は真っ暗でほとんど見えないが、鈴蘭の甘い香りが目的地が近いことを知らせてくれる。
ほどなくして二人は林の中に降り立った。
「ここか……ああ、確かに凄い香りだ」
「ちょうどいい時期だったね。 君の影響で花気が高まっているのもあるだろうけど」
「よし、ここでよかろう」
群生している鈴蘭を潰さぬよう少し離れた場所に移ってから、蕾は、抱えていた調香師を無造作に下ろした。荷物を扱うかのような乱暴さに東雲は肝を冷やすが、酔っぱらった彼はぴくりとも動かない。しかし、このまま地面に転がしておいては、確実に風邪をひいてしまうだろう。東雲はとりあえず、着ていた制服のブレザーを脱いで調香師に掛けてやった。
「これからどうするのだね。 彼が目覚めるまで待つのかい?」
「おまえはもう帰ってもいいぞ」
相変わらずそっけない蕾に、いくら慣れているとはいっても、つい溜め息がこぼれてしまう。
「君ねぇ…せっかくここまで案内したのにそれはないだろう。こんな機会めったにないだろうから、明るくなって鈴蘭を拝んでから帰ることにするよ」
辺りには人家もなく街灯すらない。天仙は人間よりは夜目が効くが、それでもはっきりと景色を視認するには至らない。
「たしかにこれでは何も見えんな。 朝まで待つしかないか」
そして、二人並んで腰を下ろした。
座っている位置から少し目をあげると、ちょうど木がまばらになった所から星空の大パノラマが開けている。
「これだけ星が出ているのに、どうしてこんなに暗いのだ」
「ここらへんは空気が格段に澄んでいるからね」
「?」
「空気中に、星の光を反射し散乱させるような不純物が少ないということだよ」
「…よくわからんが、とにかく凄いな」
天界も空気は澄んでいるのだが、光明界が近いし夜に咲く花々の花明かりや夜行性の瑞鳥などもいるので、夜でもけっこう明るい。ここまでの漆黒と星空のコントラストは、なかなか目にすることはできない。
しばし二人黙って見事な星空を眺めていたが、その静寂を破ったのは、蕾のくしゃみだった。
へっくしっ!
東雲は驚いて隣を見る。
「蕾? 寒いのかい?」
緑仙は寒暖の変化には強いので、うかつにも気付かなかった。蕾は花仙としてはかなり丈夫な方だが、それでも花は基本的には寒さに弱い。
「平気だ」
「でも君、半袖にハーフパンツじゃあ……5月の終わりとはいえ、この辺りはまだまだ夜は冷えるのだよ」
すぐにでも上着を貸してやりたいところだが、あいにく調香師に掛けてしまったので、東雲もタートルネック一枚の軽装だ。どうしたものか、と思案していると、再び蕾の盛大なくしゃみが聞こえた。
「もう少しこっちへおいで」
とりあえず肩を抱き寄せようと東雲が手を伸ばすと、しっしっと振り払われてしまった。
「大丈夫だと言っている」
「でも、夜明けまではまだあるし、これからもっと冷えてくるよ。 私も上着がなくて寒いし、くっついていた方が暖かいから」
しかし、蕾は頑として東雲の提案を受け付けない。仕方なく東雲は立ち上がって、膝を抱えて座っている蕾の後ろから、彼をすっぽりと抱き込むように座った。
「おいっ、東雲ッ」
蕾の抗議に構わず、東雲は蕾の手を両手で包み込む。
「指先が冷えきっているじゃないか。 どうして素直に寒いと言えないかな」
「これくらい何ともないわ。 おまえはいちいち大袈裟なんだ」
「はいはい。 でも、この方が少しはあったかいだろう?」
「……まあ、さっきよりはな」
蕾が案外すんなりと大人しくなったのでホッとした。かくいう東雲も、こうしているだけで、身体だけでなく心までが暖まってくる。
目の前にある蕾の後頭部にそっと顔を寄せてみると、周囲に漂う鈴蘭の芳香がほどよくブレンドされているためか、いつもより花気が甘やかに優しく感じられる。
風にサラサラと揺れる髪の動きに合わせて立ち昇る上質な香りを独り占めできるのは、このうえない贅沢な時間といえるだろう。
「地仙香」で蕾が調香師に言った「北海道というところだ」という言い方が気になったもので…。
きっと東雲に教えてもらって一緒に行ったんだろうな、という妄想です。
元ネタは覚え書き程度の短いものだったのですが、花言葉とかを調べるうちになんだか色々詰めこみたくなってしまいました。
スズランの花言葉は、純潔・意識しない美しさ・清らかな愛・くもりのない純粋さ・幸福の訪れなどなどw
イメージイラストとか書いてみました(クリックで拡大)→