「やあ、遅かったね。 今日はもう来ないかと思っていたよ」
次の夜。
言いようのない苛立ちは、収まるどころかますます募ってきてしまった。東雲の言う通りにするのは癪だが、背に腹はかえられぬと、蕾は意を決して東雲の部屋を訪れたのである。
だが、東雲の声を聞いた途端、首筋あたりがムズムズとして居たたまれないような気持ちになってしまい、すぐにでも回れ右して帰りたくなった。
心臓は自分のものではないみたいに早鐘を打っているし、顔と言わず全身が熱い。しかも、まともに東雲の顔を見る事ができないのだ。
症状は確実に悪化の一途をたどっている。
しかし、ここで帰って更に悪化することにでもなったら目も当てられないので、かろうじてその場に踏み止まっていた。
窓辺で固まってしまった蕾を見て、内心苦笑しながらも東雲は驚かさないよう優しく問いかける。
「昨日よりも随分花気が乱れているね。 昼間、何してたんだい?」
蕾は赤い顔で足下に目を向けたまま、ぼそっと答えた。
「酔姫が小蓬来に来てたから、ウサ晴らしに手合わせしてきた」
「小蓬来に行ったの? 道理で」
「なんだ」
「昨日にも増して、さらに花気が艶っぽくなってるなぁと」
「はぁ?」
「いや、だって、早春の小蓬来なんて地上で最も華やぎに満ちた場所じゃないか。 それにこの時期に酔姫将軍が来ているということは蓬来使も一緒だろう? わざわざ極上の春を浴びにいったようなものだよ」
本気で何度も手合わせをしたのに、気が晴れないどころか、余計モヤモヤとして落ち着かない気分になったのはそのせいか。芙蓉門にいる藍士にすればよかった。
「う、うるさいっ。 だからわざわざ来てやったんだろうが! いいから、さっさとどうにかしろっ」
「はいはい。 じゃあ、いつまでもそんな所に突っ立ってないで、こっちにおいで」
照れと動揺を誤魔化すため八つ当たり気味に怒鳴ってみるが、簡単にいなされてしまう。
蕾をベッドに座らせた東雲は神樹の杖を呼び出すと、両手で握らせた。
「ゆっくり深呼吸してごらん」
東雲は杖を挟んで蕾の前に立つと、蕾の手に自分の手を重ねて、呪文を唱え始めた。東雲の低く落ち着いた声に合わせて、2度3度と深く呼吸をすると、東雲の手と杖の両方から清浄な気が流れ込んでくる。
さすがは由緒正しき森の皇子。その癒しと鎮静効果は絶大で、たった数分で蕾の身体中に詰まっていたモヤモヤがすっと溶けてなくなってしまった。
「どう? だいぶ落ち着いただろう」
「ああ、助かった」
だが、こんなに簡単に済むのなら、昨夜、有無を言わさず治してくれればよかったのに。
文句を言おうと口を開きかけた蕾だったが、東雲の微妙な表情に目をとめた。
「ただねぇ…」
「なにか問題か?」
「今のは一時的に情欲を祓っただけだから、またすぐに元に戻ってしまうと思うよ。 一旦、春に反応して目覚めてしまった花気はなかなか収まらないものだからね」
「なんだと? それでは意味ないではないか」
「でも、さっきの君の状態では、まともに話もできなかっただろう? 初恋に恥じらう乙女のごとく、随分と私を意識してくれていたようだから」
意味ありげに微笑んだ東雲の顔に、蕾の鉄拳がめり込んだ。
「たわけっ! 全部おまえのハタ迷惑な性質のせいだろうがっ」
「いたた…ハタ迷惑とはヒドイな。 まあ、そういうわけだから、取りあえず君を落ち着かせようと杖の力を使ったんじゃないか」
「ふん。 で、結局どうすればいいのだ」
「情動を無理に押さえつけたり抗ったりすると、余計にストレスになるから、素直に受け入れて解放してしまえばいいのだよ」
「…よくわからん。 具体的に言え」
「一番手っ取り早くて確実なのは、私と寝ることかな。 あ、一応言っておくけど、眠る方じゃなくて交わる方ね」
「………はあ?」
言葉の理解が追い付かなくて、蕾はまじまじと東雲の顔を見上げてしまう。東雲はにこにこと笑っているだけだ。
「誰が?」
「もちろん君が」
「誰と?」
「だから私と。 まあ、ごく一般的な解決法だよ。 考えてもごらん。 開花も発情も、そもそもは生殖や求愛のための誘発作用なんだから、その目的を果たすのが一番早いとは思わないかね」
あまりにも普通のことのように解説されてしまうと、そういうものかと納得してしまいそうになるが、あきらかに論点がずれている。
「だ、だからって、なんでおまえと。 お、おかしいではないか」
意外にも大人しく真面目に反論してくるのは、蕾が相当動揺している証拠だ。おそらく彼がもう少し冷静であったら、とっくに殴られているだろう。
だが、蕾の混乱をいいことに東雲はどんどん話を進めていく。
「もちろん、君が想う姫君でもいればそれでいいんだけど、どなたか当てはあるのかい?」
「……」
当てなどあったら、初めからこんなところには来やしない。
「自分で言うのもなんだけど、私は適役だと思うよ。 君の事はよーく知っているし、東皇使として君の知らないこともいろいろと教えてあげられるしね」
オレの知らないこと?東皇使として?
含みをもたせた東雲の言葉が、ゆっくりと蕾の脳に届く。そして、遅ればせながらようやくその意味を理解するに至った蕾は、ついに爆発した。
「な、な、な…何を言っているのださっきから、キサマは! 冗談ではないっ、そんなことができるかっ! ふざけるのも大概にしろっ!」
立ち上げって掴み掛かってくる蕾に、東雲は笑いながら両手をあげて降参の意を示す。
「いや、ごめんごめん、あくまで一般論だよ。 まあ、君はまだそこまで重症じゃないから、それはまたの機会にとっておこうか」
「またの機会など金輪際ないわっ!」
つい余計な一言を加えてしまい、さらに蕾を激昂させるのは東雲の十八番である。
胸ぐらを掴まれたまま、ガクガクと激しく揺すぶられ、舌を噛みそうになりながらも、なんとか言葉を挟む。
「わ、わ、わかった、から、とりあえず、落ち着いて、座って。 えっと、では、もっと簡単な方法にするから」
「初めからそうしろ」
まだ怒り足りないような蕾がしぶしぶベッドに座ると、東雲も隣に座っておもむろに蕾を抱き寄せた。
「うわっ!…おいっ、東雲」
「いいから、力を抜いて」
「な、なにを…っ」
「だから、さっきも言った通り、春を享受して、目覚めてしまった花気を解放するのだよ。 自分が花であることを意識してごらん」
どうやら東雲は、今度こそ真面目に治すつもりらしい。
そう思って、蕾も一応言われた通りにしようとするのだが、東雲の胸に顔を埋めていると心拍数が再びどんどん上がってくるものだから、どうしていいかわからなくなってしまう。
東雲は蕾の背を優しく撫でながら、耳元でゆっくりと囁く。
「君は花で、私は春。 そのことだけをイメージして、春を感じてごらん。 君は、春の花。 春に包まれて、春光の中で目覚めて、だんだんと綻んでいく。 そうして春の深まりとともに花開き、匂い立つように艶やかに咲き誇って――――」
まるで催眠術だ。
くり返される東雲の甘い声だけが意識の奥に深く響いて、思考も感情も全てを操られてしまうように感じる。
蕾の意識は春霞に絡め取られたかのごとく緩やかに春情に満たされ、次第に恍惚となっていった。
「蕾」
やがて官能が充分に引き出された頃合いを見計らって東雲が声をかけると、夢遊病者のように緩慢な動きで蕾が顔をあげた。
予想以上の変貌ぶりに、東雲は生唾を飲み込む。
東雲を真っ直ぐに見つめる瞳は潤んだように揺らめいていて、陶然となった口元から微かに洩れる吐息がそこはかとなく煽情的だ。
気を抜くと、東雲の方こそが情欲の虜となってしまうだろう。ミイラ取りがミイラになりかねない。まあ、それはそれで望む所ではあるのだが。
東雲が魅入られたように顔を近付けていくと、蕾も仰のいて瞳を伏せる。
ふたつの唇が柔らかく重なった。
互いを探るように静かに始まった接吻けは、次第に熱を帯びていく。
普段の様子からは想像もつかないほど積極的に舌を絡めてくる蕾に、東雲も我を忘れてのめり込んでいった。
しなやかな蕾の身体をきつく抱き締め、深く激しく口内を貪る。蕾も応えるように東雲の頭に手を回し、呼吸する隙すら与えないとでもいうように、唇を強く押し付け舌を吸い上げてくる。
やがて舌での交わりがピークに達した時、突如、糸が切れたかのようにガクリと蕾が倒れ込んだ。
「おっ…と」
東雲はそれをしっかり受け止めて、そっとベッドに横たえてやる。
そして自身の内でいまだ溢れかけている激しさを鎮めるように、深く息を吐き出した。
意識を失った蕾の花気はすでにほぼ正常に戻っているが、上気した肌や艶やかな唇はまだ先程の残滓のように何とも言えないなまめかしさを残している。
もう少しだけあの状態を見ていたかったなと、若干残念な気持ちで見守る東雲の視線の先で、蕾の瞼がゆっくりと開いた。
「やあ、気がついたかい。 気分はどう?」
蕾は何度かまばたきをして、いつもと変わらぬ穏やかな顔を見上げた。
前後の記憶がなく、自分が何で寝ているのかわからない。覚えているのは、東雲に抱き締められ催眠術のように耳元で囁かれて、それから…。
「…オレはどうなったのだ?」
「覚えてないの?」
「だから聞いている」
「えっと……まあ、ほんの数分、気を失ってただけだよ」
何があったのというのか、東雲は珍しく口籠った。この歯切れの悪さはなんだろう。普段なら、聞きたくないことまで話してくるというのに。
「…でも、とにかくもう治ってるだろう?」
「まあな」
記憶は多少おぼつかないが、あの何とも言えない苛立ちや情動はなくなって確かにスッキリとした気分だ。何はともあれ治ったのなら良かろうと、蕾はさして深くは考えずに起き上がった。
しかし、やはり東雲の様子がおかしい。落胆、とまではいかないが、どこか気落ちしているような風情である。
「どうした?」
「いや…さっきの事を思い出して、ちょっとね」
「なにかあったのか?」
蕾も実のところ、話しているうちに、東雲ともの凄い接吻けを交わした記憶がおぼろげにだが蘇ってきていた。が、夢の中での出来事のようであまり実感がないし、第一そんなことを口に出せるわけがない。
蕾はほぼ無意識だったから、なにか東雲を落ち込ませるようなことをしたとか、言ってはならないようなことを言ってしまったのだろうか。
「どうせ君が覚えてないなら、もっとじっくりいろいろと堪能しておけばよかった。 もったいないことしたなあ、と思って」
真剣に聞いて損した。
「馬鹿か、おまえは」
「ホントに全然覚えてないの? あんなに激しく求め合ったのに」
「おかしな言い方をするなっ!」
「やっぱり覚えてるんじゃないか」
「…ッ! し、知らんっ」
蕾は突っぱねるが、その表情にははっきり図星と書いてある。
東雲は我が意を得たりとばかりに、嬉々として話りだした。
「自分ではあまりわからなかったかもしれないけど、君ときたら、それはもう、凄まじく情熱的というか魅惑的というか。 長年、東皇使をやってるけど、私の気にあれほど見事に感応した花仙を見たのも、私自身がその色香に抗えなかったのも初めての経験だよ。 下手をすると、こっちが喰われてしまうかと思ったほどだったからね」
「か、勝手なことを言うなっ! 誰がキサマなんぞ喰らうか」
「でも、ちょっとは私にときめいたりはしてただろう?」
「そんなことはありえんっ! もういいからとにかく黙っとれっ」
すっかりいつも通りの蕾だ。
もはや、あの匂い立つような春情は微塵も感じられない。ほんのつかの間、蜃気楼のように浮かび上がる幻だったのだろう。
拳を振り上げて怒る蕾を楽しそうにあしらいながらも、東雲は頭の片隅で考える。
いつか、あの姿が幻ではなくなる日が来るだろうか。
だが今はまだ、それを待ち望む気持ちよりも、このままの距離でいいという気持ちが微妙に勝っている。
まあ、千里の道も一歩から。時間は充分にあるのだから焦る事はあるまい。
そろそろ今年も春本番だし、まずはしっかり勤めに励むとしよう。
きっといつか、君に、至上の春を届けることができるように――――。
fin.
私の妄想話では珍しく、東雲は告白すらしてない状況です。
でも、このくらいの距離感もけっこう幸せなんだろうな、という希望をこめて。