僥倖 前編



 ……そろそろ休むか。

 田科教授に頼まれていたレポートを仕上げて時計を見ると、まもなく日付が変わろうとしている。
 いくら夏休みとはいえ、あまり夜更かしするのも身体に悪い。東雲はパソコンの電源を落とすと、卓上に置いてあるカレンダーに目をやった。

 蕾が慧兌回神将との死闘で大怪我を負ってから10日。やむを得ない事情で、治療後、蕾が目を覚ます前に下界に戻ってしまった東雲だったが、その間も絶えず彼のことを考えていた。
 傷はちゃんと癒えただろうか、また無茶したり暴れ回ったりしていないだろうかと、心配の種は尽きない。こんなことならもう少し蕾の傍にいればよかったと思うのだが、そういうわけにもいかないのが辛い所だ。

 ふっと溜め息をつくと、気を取り直してパジャマに着替える。そして部屋の電気を消そうとスイッチに手を伸ばした時――――

 カタリと小さな音がして、芳しい花の香が流れ込んできた。

 まさか、という思いで振り返ると、開いた窓の前に、パーカー風の半袖シャツとチェックの短パンというラフな姿で、待ち焦がれていた天上の花が立っていた。
「起きていたか」

「蕾……驚いたよ。いつ下界へ?」 
「たった今。 薫がうるさくてかなわんから、あいつが寝てるうちに降りてきた」  
 そう言うと、部屋の主を無視してスタスタとベッドに上がり、片膝を立てて座った。
「またそんな事を…。 君を心配しているんだろうに」
 東雲は口では咎るようなことを言ってみるが、内心の嬉しさは隠しきれない。彼が俗界に下りてきた時に、透の所ではなく、まっさきに自分の部屋を訪れてくれるなど、まずないことだ。

「傷の具合はどう? 回復具合を診せてごらん」
 東雲もベッドに上がって、とりあえずは傷の状態を確かめようとするのだが、蕾はうるさそうにシッシッと東雲の手を払い除けてしまう。
「いい、もう治った」
 しかし、東雲も負けてはいない。
「そんな馬鹿な。 下界に飛んでこられるくらいには治ってるかもしれないけど、まだ痛むんだろう?」
 言いざま、傷のある腹部あたりを掌でやや強めに押してやる。
 蕾がウッと呻いた一瞬の隙を逃さず、彼のシャツのボタンを外しはじめた。
「おいっ、何をする。ちょっと待てっ…わ、わかった。いいから、自分で脱ぐからどけっ!」

 東雲を思いきり蹴飛ばしはしたものの、観念したのか、蕾はためらいなく服を脱ぎはじめた。
 人に脱がされるのがイヤというのはわかるが、自分で脱ぐ分には特に抵抗がないというのは実に彼らしいなと、東雲は密かに笑みを零す。

 結局、蕾はトランクス一枚の状態になって、大人しく診察を受けることとなった。存外、素直に応じた所を見ると、彼自身まだ本調子ではないと自覚しているのだろう。
 しかし、かなりの深手を負っていたはずなのに、さすがは天界一の武将、順調すぎるほどの回復ぶりだ。  

「よかった。この調子ならあと数日で完全に傷が塞がるよ。今回は先に私が戻ってきてしまったので心配してたけど、意外にきちんと養生していたみたいだね」
「それだ。 だいたいお前がとっとといなくなるから、薫が『東皇使さまがいない分も私が』とか言って、余計あれこれ口うるさくなったんだぞ」
 脱ぎ捨てたシャツを拾って腕を通しながら、蕾は拗ねたような口調で文句を垂れている。

「そんなこと私に言われてもねぇ」
 東雲はそんな蕾に苦笑して立ち上がると、棚から小さな瓶を取り出した。
「はい、蕾。飲んでごらん」
「なんだ?」
 訊ねておきながらも答えを待つ気はないようで、蕾は一口で飲み干してしまった。東雲本人には口がさけても言わないが、蕾はこういう時の東雲には絶対の信頼をおいている。

 やはりというか、飲んだ途端にすっと痛みが軽くなった。
「これは……蓮の一番露か?」
「最近、何度か、透と夕姫ちゃんと蓮の開花を見に行ってね。 その時、夕姫ちゃんにあげたんだけど、ちょうど余分にあったから」
「ああ…それで蓮華か」

 思い出すのは、慧兌回神の一件だ。
 東雲が老伯将に託してくれた、神通力を宿した蓮華。あれがなかったら、あの手強い魔神を封じることができたかどうか。
 加えて、薫がことあるごとに「東皇使さまの必死の治療のおかげで」などと枕詞のように言っていたのは、傷を癒すのも相当困難だったということだろう。
 実際の所、今夜まっすぐに東雲の所に降りてきたのは、そのことが常に頭にあったからだ。さすがに、いくら遠慮のいらない幼馴染み相手とはいえ、一言の挨拶もなしというわけにはいくまい。

「慧兌回神将クラスの大物相手だと、やはり聖性の強い蓮がふさわしいだろうと思って。君の役にたったみたいでよかったよ」
 穏やかな顔で当たり前のようにいわれてしまうと、なかなか素直になれない自分が恨めしい。
 しかし、礼を言うなら今このタイミングしかないだろうと、意を決して口を開いた。
「まあ……その……あれだ。 い、いろいろと、世話になったな」
 とはいえ東雲の顔を正面から見ることはできず、そっぽを向いてぼそっと呟くのが精一杯なのだが。

「!?」
 それでも東雲にとってはかなり予想外のことに違いなく、聞き間違いかと一瞬呆けてしまう。しかし、蕾が赤い顔で俯いてるのを見て、今のが幻聴でなかっとわかると、次第に表情が緩んでいった。
 そして、黙ったままの東雲を訝しんで蕾が顔をあげたところを、後ろからぎゅっと包み込んだ。

「おわっ、東雲?」
 とりあえず言うべき事は言ってほっとしていた蕾は、突然の東雲の行動に対応できない。

「お、おい、何をしている。 黙ってないで何とか言え」
 ようやく東雲に抱き締められていることに気付いて、蕾がプチパニックになっている。その様子がおかしいのか、蕾の肩口に顔を伏せたままの東雲がクスクスと笑いだした。
「何を笑っている。 いいかげん離さんかっ、コラ」
「いや。 本当に、君が無事でよかったなぁとつくづく思ってね」

 いつもの軽い口調だが、その中に切実な響きが混じってるのを蕾は聞き逃さなかった。それが、東雲の本心だとわかるだけに、あまり強くは言えなくなってしまう。
「……お前が治療したのだから、無事なのはとっくにわかっていただろうが」
「それはそうだけど、こうして逢ってようやく実感がわいたというか……。 まあ、私に世話をかけたと思うのだったら、もう少しだけ、このままでいさせておくれ」

 礼を言った手前、こうもストレートにお願いされてしまったら、蕾に断る術はない。
「……ちっ、仕方のないやつ」
 渋々といった口調で言いながらも、蕾は強ばっていた力を抜いて東雲に身体を預け、前に回された彼の手に自分の両手を重ねてやる。
 心地よい沈黙の中で、ただお互いの体温だけを感じていた。

「実は、兄上に叱られたんだ」
 しばらくして、ぽつりと東雲が呟いた。
「上条宗司さまに?」
「私が君のことを心配しすぎているって」
 蕾はぷっと小さく笑う。
「確かにその通りだな」
「…………」 
 自分でもわかってはいるのだが、当の本人にこうもあっさり認められると、それはそれでなんだか悔しい。

「どうした?」
「いや…まあ、それで兄上から、とにかく今回は治療が終わり次第すぐに下界に戻るようにって、釘をさされてしまってね。後ろ髪をひかれつつ、先に戻っていたのだよ」
 実はその後も、せめて蕾が目覚めるまではと五百重に頼み込んでみたのだが、留学中の身なればあとは自分や薫に任せて速やかに俗界へ下るように、と逆に厳命されてしまったのだ。

「なるほどな… で?」
「そういうわけで、いつにも増して君が心配だったという話」
 軽く拗ねたような東雲の声に、蕾はくっくっと含み笑いで返してくる。
「なんだ。 結局、宗司さまの忠告がまったく役にたっていないという話かと思ったぞ」
 確かにそう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
「ふん…言ってなさい」
「まあそう拗ねるな」
 蕾は幼子をあやすように、ぽんぽんと東雲の手を軽く叩いてやった。

 なんとか意趣返しをしたくなった東雲は、腕を少しだけ緩めて蕾の顔を覗き込んだ。
「…そういえば、もう一つお願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「目を閉じてくれないかい」
 蕾は、少し怪訝な顔をしたが、さして疑うことなく瞼を下ろした。

 信用してくれているは嬉しいのだが、こうも素直だと東雲としては若干複雑な気分である。
 東雲の気持ちは伝えてあるし、何度か不意打ちのようにキスしたこともあるのだから、もう少し警戒というか、意識してくれてもいいのにと思うのは我侭だろうか。
 たんに蕾がこういう機微に疎いだけなのだろうが、もしかして、東雲の告白はなかったことにされてしまったのかと、少々心配にもなってしまう。

 しかし頭でそんなことを考えながらも、よどみなく行動に移している所はさすが東皇使。

 蕾の頬に手を添え心持ちこちらを向かせると、そっと唇を重ねた。



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